【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(10)】1991年11月22日に東京・新高輪プリンスホテル(現グランドプリンスホテル新高輪)で行われたドラフト会議は、いわゆる“当たり年”でした。1番人気は駒沢大の若田部健一投手。ほかにも日大の落合英二、東北福祉大の斎藤隆、ヤマハの吉田篤史、東京学館浦安高の石井一久と好投手が目白押しでした。
野手でも関西学院大の田口壮に同志社大の片岡篤史らが上位指名候補として名を連ね、愛工大名電高の鈴木一朗や東北福祉大の金本知憲、渋谷高の中村紀洋、高田商高の三浦大輔ら、そうそうたるメンバーが下位指名でプロ入りしたのも、この年のドラフトです。
当日、僕は富山県高岡市内の自宅で、ダイエーからの電話をスーツ姿で待つことになりました。担当スカウトとなる池之上格さんや元監督で編成部長の穴吹義雄さんから「たぶん指名するから」と事前に伝えられていたことは両親にしか話していませんでしたが、なぜか地元メディアが大挙して押し寄せたからです。
確かに9月末の入団テストには合格していましたが、ダイエー側からの「指名するから」はあくまで口約束。指名されなかったからといって、文句は言えません。ただ、富山県はプロ野球選手の出身地ランキングで40位前後という土地で、メディアにしてみれば下位指名でもニュースだという感覚だったのでしょう。
ダイエーは1位指名で4球団競合の末に、若田部の交渉権を獲得し、2位で東北福祉大の作山和英を指名。この時点で、ちょっと嫌な感じがしていました。さらに4位で足寄高の三井浩二、5位も新日鉄君津の山口信二と4投手を指名し、そのうち三井を除く3人が右投手。「もう指名はないんじゃないか」という心境にもなりました。
今では育成選手の指名が終わるまでライブで映像を見ることができますが、当時の生中継は上位指名のみ。現場の様子を伺い知ることもできずに客間で待機していると、午後5時半過ぎに自宅の電話が鳴りました。受話器から聞こえてきたのは池之上さんの声。「一番最後だけど、指名したからね」。12球団から指名を受けた全92選手の中で92番目。ダイエーの10位指名として、僕の名前が読み上げられたのです。
前年まで1球団6人以内の指名だったドラフト制度は91年に変更され、ドラフト外入団がなくなった代わりに最大指名人数は10人に拡大されていました。巨人やヤクルトは6位で指名を終えており、9位指名をしたのも西武とダイエーだけ。65年の第1回ドラフト会議から司会を務め、91年限りでの退職が決まっていた「パンチョ」こと伊東一雄さんにとって最後のアナウンスが「福岡ダイエーホークス 田畑一也 投手 田畑建工」となったわけです。
本来なら僕の所属先は野球をしていた「元北陸銀行」か「高岡第一高校卒」が正解だったのかもしれません。パンチョさんが「田畑建工」と読み上げたのは、池之上さんの配慮があったからだと聞いています。











