【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(9)】50歳を過ぎてつくづく思うのは、家族のありがたさです。1991年9月末に日本列島を襲った非常に強い台風19号の影響で、棟上げ式を終えたばかりのお客さんの一軒家が全壊。「田畑建工」として総出で復旧作業に取りかからなければならないという日に、父親は翌日にダイエーの入団テストを控えた僕に「行ってこい」と背中を押してくれました。母親にしてもそう。往復の交通費として、そっと3万円ほど持たせてくれました。

 往路は飛行機で福岡を目指し、テスト当日の9月29日は博多駅から鹿児島本線の門司港行きに乗って香椎駅で乗り換え、西戸崎行きの香椎線を雁ノ巣駅で下車。ファームの本拠地でもあった雁の巣球場の入り口で受け付けを済ませると、20番台のゼッケンをつけて本番に臨みました。

 テストは技術からで、キャッチボールを終えるとすぐさまブルペンでピッチング。受けてくれたのは入団後にバッテリーを組むことになる捕手の吉永幸一郎で「うちのピッチャーよりいいよ」と声をかけてくれました。朝から気合十分だった僕はアドレナリンが出まくりで、その後の50メートル走ではタイムこそ忘れましたが自己ベストをたたき出し、遠投は122メートルを記録。のちに担当スカウトとなる池之上格さんからは「また連絡する」と言われ、いわゆる招待選手としてファームの練習に参加することも決まりました。

 この年は120人が参加して合格者は僕を含めて投手2人だけ。もう一人は九州国際大の4年生で、右肩痛から春の九州六大学リーグで1試合しか投げられず、このままでは諦められないという思いから受験したとのことでした。

 テスト後の帰路は博多駅から新幹線で新大阪駅に向かい、大阪駅から特急雷鳥に乗り換えて陸路富山へ。缶ビールを飲みながら、車窓から見た台風19号による各地の被害状況も目に焼き付いています。2か月後に控えたドラフト会議で指名されるまでは本当の意味での合格ではないのですが、それまでのプロセスも含めて感慨深いものがありました。

 それから10日後に参加したファームの練習ではプロのレベルの高さを思い知らされ、2日目にして腕はパンパン。1週間ほどの“お試し期間”で最後の2日間は投げることもできませんでした。入団後に仲良くなる同学年の下柳剛と初めて会ったのが、思わず駆け込んだトレーナー室だったことを覚えています。

 全ての日程を終え、帰る前には元監督で、当時は編成部長だった穴吹義雄さんに「たぶんドラフトで指名するから、ご両親ぐらいには話してもいいよ」と言っていただきました。前年までなら、この時点でドラフト外入団が決まっていたのでしょうけど、91年から制度が変更されて指名がなければプロ入りはナシ。口約束だけでどう転ぶか分からなかったので、ダイエーに指名される可能性があることを伝えたのは両親だけでした。