【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(7)】実家の「田畑建工」で大工見習いを始め、健康的な生活を送っていた僕に「何もしていないんだったら一緒に野球をやらんか?」と声をかけてくれた人がいました。大のG党で、現在も富山の高岡駅近くで元気に営業している居酒屋「魚人(ぎょじん)」の大将です。常連客などで構成された草野球チームへのお誘いでした。

 活動は毎週日曜の朝。試合後には決まって店でコロッケパーティーが行われ、ビールも進みました。もちろん趣味の延長ではあるのですが、野球に対してはかなりガチ。1993年まで行われていた全国草野球大会・ニッサングリーンカップへの出場を目標に、地元紙が主催する北日本新聞朝間野球にも積極的に参戦していました。

 ライバルチームには僕の母校である高岡第一高や新湊高、富山商高といった県内強豪校のOBがずらりといて、決してレベルは低くありません。僕は1年間で20勝1敗、73イニング連続無失点とブイブイいわせていましたが、唯一の黒星はニッサングリーンカップ出場をかけた戦いで、富山商OBのチームに喫したものでした。

 それにしても、この頃は楽しい日々でした。好きな野球ができるだけでなく冬はスキー、夏は海水浴にバーベキュー。大工見習いも順調で、実家住まいの強みを生かしてクルマもトヨタのランドクルーザーに乗っていました。そのまま富山で暮らしていても、地元の女性と出会って結婚し、幸せな家庭を築いていたかもしれません。

 しかし、神様は僕に違う道を提示しました。あれは1991年9月6日の朝のことです。いつものように僕は朝食を取りながら、昔から宅配してもらっていた北日本新聞を読んでいました。1面は崩壊間近のソ連情勢の記事だったでしょうか。パラパラとめくりながら17面に掲載されていた2日後に控えた大相撲秋場所の展望や、テニスの全米オープンで女子準決勝がシュテフィ・グラフとマルチナ・ナブラチロワの対戦になったことなどを伝える記事を読み、全面広告の18面をやり過ごして2枚目のスポーツ面に目を落とすと、僕の運命を変える記事が載っていたのです。

 この日は金曜日で、前夜のプロ野球は中日―大洋、広島―阪神、近鉄―ロッテの3試合のみ。中日の郭源治投手が完投で12勝目を挙げた記事がトップで、その下には「猛牛軍団 連戦の疲れ」の見出しで8月27日からの13連戦で9試合を8勝1敗で乗り切りながらブレーキがかかった近鉄の記事。プロ野球がメインのページを3試合で埋めるのは大変だったのでしょう。紙面の端っこのほうに富山とは特に関係のない、高知で行われる黒潮リーグの日程が決まったことを伝える記事とともに、福岡ダイエーホークスの入団テストが行われるという30行弱の告知記事が掲載されていたのです。