【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(4)】僕が高岡第一高を選んだ一つの理由に「在学中に一度ぐらいは甲子園にいけるんじゃないか」という思いがありました。実際に、入学前の1981年夏に富山県大会を制して夏の甲子園に出場していましたからね。3年生の夏は自力で聖地を目指すラストチャンスでした。
86年春の北信越大会は自らのサヨナラアーチで制した長野商との準決勝までの3試合、29イニングを一人で投げ抜き、決勝こそ高岡向陵の後塵を拝したものの準優勝。最後の夏に向けて最大のライバルと目されていた新湊には前年の秋季大会準決勝で2―1、86年の春季大会準々決勝でも5―3で勝っており、十分に甲子園を狙える力はあったと思います。なにせ新湊は同年の選抜大会でベスト4まで進み、全国に“新湊旋風”を巻き起こした強豪校ですから。
当時としては史上最多の47校が参加した86年夏の富山県大会は7月11日に組み合わせ抽選が行われ、高岡第一は2回戦からの登場。下馬評では春夏連続の甲子園を目指す新湊に史上初の3連覇がかかる高岡商、春の北信越大会を制した高岡向陵と同準Vの高岡第一が4強と目され、決勝まで新湊と当たらないわが校は「くじ運に恵まれた」と専らでした。
背番号1で臨んだ最後の夏は初戦の2回戦で八尾に13奪三振で6―0の完封勝ち。3回戦も魚津に2―1で競り勝ち、1失点完投と順当に勝ち上がりました。3連覇を目指す高岡商との準々決勝は1―0の4回に連打と犠打に暴投まで絡んで3点を奪われましたが、最終的には10回完投で4―3の逆転勝ち。しかし、新湊との頂上決戦を前に準決勝で創部6年目の高岡南に延長12回裏、一死満塁から初球を右前にはじき返されて2―3でサヨナラ負けを喫してしまいました。
12安打を許して5四球と制球こそ定まりませんでしたが、カーブの曲がりが悪い中で直球は球威もあって11奪三振。調子の良さは大会中で一番でした。それでも負けは負け。ベンチに戻っても悔し涙が止まりませんでした。
夏の大会を終えた3年生に待っているのは進路選び。両親からは「大学に行け」と言われ、実際にいくつかの大学からお誘いもありましたが、最終的に地元の社会人チーム、北陸銀行で野球を続けさせてもらうことにしました。そもそも勉強するのが好きではなく、僕の中で大学進学という選択肢はなかったのです。
中学生時代まで憧れていたプロ野球もそう。スカウトが見に来ていたというウワサを耳にしたことはありましたが、本当に来ていたかどうかは分からないまま。世はバブル絶頂期でもあり、地元の銀行への就職は両親も喜んでくれました。












