【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(2)】僕が生まれ育った富山県高岡市は、加賀前田家の2代目当主、前田利長が築いた高岡城の城下町として発展した街です。といっても、実家があったのは隣の射水市との境にある庄川の上流にあるエリアで、周囲には田園風景が広がっている田舎でした。
野球との出合いは保育園児だったころと記憶しています。父親に連れられて、県営富山球場でプロ野球を観戦。一軍の試合だったのかどうかも覚えていませんが、それからボールの壁当てとかをするようになったので、よほど楽しかったのでしょう。
我が家は5人家族で、父はバレーボール、母はバスケットボール、姉はバレーボールに陸上の五種競技、兄もバレーボールの経験があるスポーツ一家でした。家族に野球経験者はおらず、地域に学童野球もありませんでした。僕が通った高岡市立二塚小学校は1学年24人で1クラスという環境でしたが、娯楽も限られた時代で友達と遊ぶといえば野球ぐらい。児童クラブのチームにユニホームはなく、体操着を着て夢中になっていました。
6年生の時に二塚地区の代表として近隣の地域対抗戦に出場した際に、相手チームの中学生から三振を奪ったことは鮮明に覚えています。児童数が少なかったことから各チームが小中学生の混成で、投手は小学生に限るというルールだったのです。ポジションは二塁に三塁、遊撃といろいろやりましたが、投手の面白さに目覚めたのは、このころだったかもしれません。
高岡市立芳野中学校では1年生から野球部に入りました。ただ、強豪校でもなく、目立った成績といえば高岡市で一度だけ2番になったことぐらい。2年生の秋から主に「1番・二塁」で試合に出させてもらうようになりましたが、県大会にも行けずじまい。本格的に野球に取り組むようになったのは、高岡第一高に進学してからです。
いきなり1年生からレギュラーというわけにはいきませんでしたが、ツキはありました。2学年上の3年生は20人ほどいましたが、1学年上の2年生は6人しかいなかったのです。実際に秋を迎えて新チームになると、僕は肩の強さを買われて捕手登録となり、背番号12をもらいました。1984年のことです。
我が高岡第一高は秋季大会こそ準優勝ながら、北信越大会では進学校の長野高に2―9で1回戦負け。投手力を強化しなければならないということになり、練習時の打撃投手で速い球を投げていた僕にも声がかかりました。選ばれた6人は正月休みもなく、コーチの木下さんの母校である名古屋学院大の寮に寝泊まりして中京高(現中京大中京高)などで合同練習。この頃から僕の投手人生が本格的にスタートしました。












