【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(1)】プロに入ってしまえばドラフトでの指名順位は関係ない――。その言葉に最も説得力をもたせられる一人がダイエー(現ソフトバンク)でキャリアをスタートさせ、ヤクルトで素質を開花させた元投手の田畑一也氏だろう。大工見習いとして草野球を続けながらプロの門をたたき、紆余曲折を経て「野村再生工場の最高傑作」とまで言われた男が自らの野球人生を振り返る。
東スポ読者の皆様、はじめまして。かつてダイエーやヤクルト、近鉄、巨人で投手をしていた田畑です。今年2月から韓国プロ野球のサムスンで二軍投手コーチをさせてもらっています。本当は昨年限りで野球界から足を洗おうと思っていたんですけどね。こうして必要とされるのは、ありがたい限りです。
転機となったのは昨年10月末とか11月だったでしょうか。在籍していた社会人チームで結果を残すことができず、責任を取って辞めることにしたのです。とはいえ家族を養う身で、年金暮らしにはまだ早い。職探しをしてアルバイトを始めた直後に、サムスンの投手コーチと東スポさんの連載の話を立て続けにいただきました。「自分なんかでいいのかな」という思いもありましたが、せっかくなのでどちらも引き受けさせてもらうことにしました。しばし、お付き合いください。
振り返ってみると、僕の野球人生は浮き沈みが激しく、ジェットコースターのようでした。子供のころはプロ野球選手によくいる「エースで4番」だったわけではないし、富山・高岡第一高に入学してからも1番を背負うのは3年生になってから。甲子園大会にも出場できなかったし、社会人野球の北陸銀行でお世話になっても右肩痛から3年で退社しました。
運よくプロ野球の世界に飛び込むことはできましたが、先発ローテーションの一角を担えるようになったのは、2球団目のヤクルトに入って野村克也監督と出会ってからです。初の2桁勝利となる12勝を挙げた1996年は既に27歳になっていました。
22歳の秋にプロ野球の世界に飛び込んでから、もう32年。こうして54歳になった今でも野球界に携わることができているのは、ひとえに支えてくれている周りの方々のおかげです。富山県の片田舎で育った僕が、いかにして華やかなプロ野球の世界に飛び込み、曲がりなりにも「野村再生工場の最高傑作」と言われるまでになったのか。記憶をたどりながら、順を追ってつづっていきたいと思います。












