【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(3)】振り返ってみると、僕の野球人生で順風満帆だった時期がありません。高岡第一高の1年秋から本格的に投手を始め、翌春に背番号1をもらって臨んだ1985年の夏は、あっけなく終わってしまいました。

 忘れもしない開幕2試合目のことです。井波高との1回戦に先発したものの、1点を奪われて4回降板。チームは1―2で敗れてしまいました。エース番号は剥奪され、新チームで与えられたのは背番号6。兼任投手で臨んだ高岡市長杯ではボコボコに打たれて、秋季大会では7番を背負うことになりました。

 その秋季大会は一人で投げ抜き、決勝で不二越工を7回途中までパーフェクトに抑えて優勝。しかし、翌春の選抜大会につながる北信越大会では初戦の準々決勝で長野中央打線に打ち込まれて5―10で完敗してしまいました。高校生レベルでは球威も球速もそこそこあったと思いますが、コントロールがあまり良くなく、当時の僕には1番を背負わせる決め手がなかったのかもしれません。

 悔しかったし、何とかしたい――。高校3年間で最も闘志を駆り立てられたのが、この頃です。冬の間に何とかしたいと思い立ち、始めたのがランニング通学でした。弁当箱や教科書の入ったリュックを背負い、雪が降っても雨が降っても学校まで8キロほど走り、学校から野球部のグラウンドまでの約6キロもランニング。往復で1日30キロほど走り続けました。

 そのかいあってか、86年春季大会の準々決勝では、同年の選抜大会でベスト4まで勝ち上がり旋風を巻き起こした新湊に5―3で快勝。それでも高岡向陵との決勝では0―4と完敗し、以後は長距離走ばかりではダメだと1時間目の授業の前に誰よりも早くグラウンドに出て30メートルのダッシュを繰り返すようになりました。

 そして迎えた春の北信越大会では、のちにプロを目指す上でモチベーションの一つにもなる試合に臨みました。7―1で制した準々決勝の石川・星稜戦です。相手先発は1学年下の村田勝喜。87年ドラフト6位で南海に入団し、僕がドラフトで指名された91年に自己最多の13勝を挙げてチームの大黒柱となった投手です。

 1回戦の新潟・長岡商戦に2安打完封勝ちの僕は、星稜戦でも1失点完投勝利。翌日の新聞には「田畑は1回戦より調子が良かった。直球主体に攻めたのが成功した」という竹澤甚一監督の、お褒めのコメントが掲載されていました。

 この大会は準決勝まで一人で投げ抜き、決勝進出をかけた長野商戦では延長11回、153球の熱投の末に裏の攻撃で初球の高めストレートをバックスクリーン脇に放り込んでサヨナラ勝ち。最高の場面で飛び出した公式戦初アーチの写真は「報知高校野球」にも掲載されて、誇らしく思ったものです。