【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(6)】硬式野球部の一員として1987年に入社した北陸銀行ですが、2年目に腰のヘルニアを患い、3年目には日常生活にも支障をきたすほどの右肩痛に見舞われ、僕は退職することを選びました。相次ぐ故障禍は、体のメンテナンスをしっかりしていなかったことが原因だと思っています。しなかったというより、ケアの仕方を分かっていなかったというのが正しい表現かもしれません。
チームにトレーナーはおらず、トレーニングも自己流。専門的な知識はなく、教えてくれる人もいないから、ヒジや肩に違和感があっても「休めば治る」ぐらいの感覚だったのです。そりゃあ、ケガもしますよね。
20歳にして無職となった僕は、まず髪を洗うのにも激痛が伴う右肩を手術することにしました。お世話になったのは石川県小松市にある加賀八幡温泉病院(現やわたメディカルセンター)で、退院後にはリハビリをしながら職探し。運良く自動車メーカー系の地元企業に雇ってもらえることになり、3か月ほど研修も受けました。その間は無遅刻無欠勤。研修を終えたら正社員に…という流れになっていました。
しかし、僕は正社員としての辞令をもらうなり退職を申し出てしまいました。研修は楽しかったのですが、自分に向いている仕事とは思えなかったからです。まあ、子供だったんでしょうね。誰でも「好きなこと」が仕事になっているわけでもないのに…。
再び無職となった僕に再就職の選択肢はありませんでした。北陸銀行を辞める際に大反対した父親に「大工をやらせてくれ」と頭を下げました。我が家は「田畑建工」という屋号で建築業を営んでいて、父親と2歳上の兄、職人さん2人の計4人で主に一軒家の建築をしていたのです。さすがに父親からは「足を出すなよ(途中で投げ出すなよの意)」とクギを刺されましたが、晴れて大工見習いとして再々スタートを切ることになりました。
もちろん、簡単にできる仕事ではありません。2年後にプロ野球選手となった際には、取材に来てくれたカメラマンの要望でカンナを手にポーズを取りましたが、カンナ掛けというのはすごく技術のいる作業で、素人にできることではありません。僕に任されたのは床板を張る前の下地など、お客さんの目に触れることのない部分の下処理。それでも慣れてくると柱の面取りなどもさせてもらうようになり、うれしいものでした。
手術した右肩の痛みも癒え、重い材木を担いで足場を上り下りしているうちに自然と体幹が鍛えられていきました。銀行マン時代の札勘ではありませんが、トンカチで正しくクギを打ち続けることで、リストの使い方も良くなったように思います。心身ともにリフレッシュできた僕の中で、忘れていた“アレ”への情熱が湧いてきました。そう、右肩手術を機に遠ざかっていた野球です。












