【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(5)】1987年春、高岡第一高を卒業した僕は、地元の富山市に本店を構える北陸銀行に入社しました。“本業”は硬式野球部の投手ですが、そこは社会人野球なので銀行員としての仕事もします。配属されたのは富山駅から路面電車で南に10分ほど下った中町停留所から徒歩2分のところにある本店営業部。シーズン中は午前中のみの勤務ですが、オフはフルタイムで働きました。

 普段は出納係として窓口の後ろで仕事し、窓口係の方が昼休憩を取る1時間は窓口業務もしました。紙幣の枚数を数える札勘定、いわゆる“札勘(さつかん)”もお手の物。手首のスナップを生かし、扇状に札束を広げて4枚が何束あるかを数える「横読み」は今でもできると思います。それだけの現金が手元にあれば…ですが。

 何かの番組で、銀行マン経験のある元広島投手の大野豊さんが「札勘のおかげでリストの使い方が良くなった」というようなことをおっしゃっていました。僕にそういう意識はありませんでしたが、ひょっとしたら知らず知らずのうちに野球に役立っていたのかもしれません。

 入社1年目は高砂市長杯でリリーフとして投げさせてもらい、松下電器戦で2年後に西武から1位指名を受ける潮崎哲也と投げ合ったこともありました。しかし、北陸銀行時代といえば、ケガとの闘いが大半だったように思います。

 2年目に腰のヘルニアを患い、思うように投げられなくなりました。野球をするために入社させてもらったのに、野球ができない。もう「辞めるしかないな」との考えに至りました。しかし、両親や兄は大反対。野球を辞めるのは仕方ないにしても、会社を辞める必要はないだろうと言うのです。

 親としては当然でしょう。大学でしっかり勉強しても簡単には入れない地元の優良企業に息子が就職できたわけですからね。家族の説得でその時は退職を思いとどまりましたが、3年目には右肩痛を発症。ボールを投げるどころか、髪を洗ったりドアノブを回すことさえままならない状態で、今度こそ「もう辞める」となりました。

 もちろん家族は猛反対で、家でも連日のように「辞める」「辞めるな」の大げんか。父親が銀行まで押しかけて来たこともありました。何もかもが嫌になって、数日間だけ家出したり…。家族の言い分は理解できていたのですが、正直言うと、その後の人生を銀行マンとしてやっていく自信がなかったのです。昇級試験のために勉強している自分をイメージすることもできませんでした。

 入社3年目の89年10月限りで、お世話になった北陸銀行を退職。僕は21歳にして野球をできない体となり、無職になってしまいました。