【平成球界裏面史 近鉄編①】今になって振り返れば、あのあたりが中村紀洋にとって波瀾万丈の始まりだったのかもしれない。
大阪近鉄バファローズの中心選手として球界を席巻。浪速のアーチストとしてその名を轟かせた中日・中村紀洋二軍打撃コーチ。その野球人生の一つの転機は平成14年(2002年)だったに違いない。
01年に近鉄はダイエー、西武との大混戦を制し、前年度最下位からリーグ優勝を果たした。その中で中村は打率3割2分、46本塁打、132打点とキャリアハイの数字でVの立役者となった。さらに翌02年は42本塁打、115打点でFA権を取得。その去就に注目が集まらないはずはなかった。
現在のNPBと状況は大きく違い、当時の日本球界はFA移籍への注目度が非常に高かった。特に02年オフは巨人・松井秀喜が米大リーグ・ヤンキース入りを希望し、11月1日にFA権の行使を表明。すると、長く巨人の4番を務めてきた松井の穴埋め補強にも注目が集まった。
そんな状況下、中村も11月5日にFA宣言。当然、巨人からも獲得を打診された。さらには暗黒時代から脱却しようと懸命だった星野阪神も獲得合戦に参戦。そこに本人が予想だにしなかったチームも加わる。
「メジャーでのプレーも想像しなかったし強いあこがれもなかった。ただ、メッツからオファーがきた。正直、びっくりですよ。実際にオファーが来た時には『本当にメジャーから声が掛かるもんなんだ』という感覚でしたね」
中村の獲得に米大リーグ・ニューヨーク・メッツも参戦。すでにイチロー、新庄剛志がメジャーでプレーしてはいたが、日本人内野手となれば中村が史上初。「初の日本人内野手ということだったので、それなら挑戦してみようという気持ちになりました」と心は一気に海外へと傾いていった。
ほぼ心は決まっていた。12月19日には年俸700万ドルでの2年契約プラス、3年目は600万ドルのオプションで合意。03年は初の日本人内野手としてメッツの一員となるはずだった。
だがその後、中村が近鉄に残留したのはすべてのファンが知る通り。FA宣言した11月5日からメッツと破談となる12月20日には何があったのか。当時は20代後半の若者だった中村。すでに3人の子供を含め家族を持つ父親でもあった。将来の進路について真剣に悩んだ。
巨人とのやり取り、阪神との交渉の過程、近鉄残留への話し合い…。若き日の中村はこの短い期間で濃厚過ぎる経験をした。次週は21年前に繰り広げられた「幻のメッツ・中村」について当時の記憶を掘り起こしてみようと思う。

















