【平成球界裏面史 イチロー編②】平成6年(1994年)にすい星のごとく登場したオリックスのイチローは、型破りの「振り子打法」で210安打の日本記録、打率3割8分5厘をマークして球界を席巻した。95年には震災を乗り越えてのリーグ優勝、96年には日本一とチームをけん引し、国民的なスター選手となっていく。
94年から2000年まで7年連続で首位打者を獲得することになる〝安打製造機〟イチローは、常に変化しながら〝進化〟を遂げていた。近鉄・野茂、ロッテ・伊良部、黒木、西武・松坂らのライバルたちをはじめ、各球団がデータを駆使して襲いかかってくる。
「イチローなら打って当然」という重圧の中、それらを技術で上回るには前年と同じことをやっていてはいけない。「打撃は生き物」とするイチローは、毎年のようにアップグレードに取り組んだ。
チームメートでイチロー〝ウオッチャー〟だった大島公一氏はこう話す。
「いろんなことを想定ししながらあの成績を残したと思います。だから成績が落ちない。いつも新しいことに挑戦する発想と行動力があった。こうなった場合にどうなるか、を実際にやってみる。淡々とやっているように見えて思考、修正を繰り返していたんです」
キャンプからフォーム改造を試し、シーズン中も微調整を続ける。オープンスタンスの右足の位置を変えたり、尊敬するケン・グリフィー・ジュニア(元マリナーズ)ばりの背筋を反らすフォーム、振り子をやめてすり足にしたこともあった。
「あくなき探求心を持っていた。悩むんじゃなくて模索するのが楽しかったんじゃないですかね。振り子打法なんて考えられない打ち方だったし、96年ごろは投手に対して正面を向き、オープンスタンスから足を上げていた。練習の中でどれがいいのか、どれがマッチするのかを探していた」(大島氏)
2000年のシーズンを最後にメジャーに移籍するが、イチローはメジャーのハード日程を見据え、ある〝実験〟もやっていた。選手にとって体力的にきつい「ナイター明けのデーゲーム」にあえて一睡もせずに臨むというもの。
チーム関係者は「十分な睡眠がとれない時、まったく寝ずに試合に出るとどうなるのか、試していたのかもしれません。メジャーの日程はもっと大変なので想定していたんでしょう」と見ていた。過酷な状況に身を置き、体の負担を確かめたかったのか…。
結果を出しても現状維持ではいられない。打撃コーチすら介入できないような境地に達し、試行錯誤を続け、感覚をつかむまで黙々とバットを振り続ける。イチローは同僚だった野田浩司氏にこう話したことがあったという。
「首位打者を取ることは自分の中で怖いことでもある。相手はそれ以上、警戒してくるし、今年と違うことをやってくる。自分も変えていかないといけない」
国民的スター選手でありながら修行僧のようにストイックに打撃を突き詰めていく。そんな姿勢に球団は気を使い、仲間とも距離ができる。気づけばイチローはチーム内で〝孤立〟していた…。

















