【平成球界裏面史 松井秀喜エンゼルス編】WBCが終わっても「SHO TIME」はまだまだ続く。エンゼルス・大谷翔平投手(28)はレギュラーシーズンでも投打二刀流で日米の話題を席巻中だ。
今から13年前、その大谷に先駆けて同じ赤いユニホームを着用し「SHO TIME」ならぬ「GODZILLA」のニックネームでアナハイムのファンから声援を送られた男がいた。松井秀喜だ。
平成21年(2009年)のワールドシリーズでは、ヤンキースの一員として日本人初のMVPを獲得。同年オフにヤンキースからFAとなり、ロサンゼルスで1人の名将と会食をともにしたことが、エンゼルスへ移籍するきっかけにつながった。その相手が当時チームを率いていた〝名将〟マイク・ソーシア監督である。
ヤンキースでは故障しがちだった両ヒザのコンディションを、当時のジョー・ジラルディ監督から憂慮され「指名打者」として固定されていた。そんな松井にソーシア監督は会食の席上、エンゼルスへの移籍を決意してくれれば、外野手としても起用することを約束。さらには「全試合に出場してチームを引っ張ってほしい」とまで言い切り、その場で直接ラブコールを投げかけた。
熱い言葉を送られた松井はエンゼルスからのオファーを快諾し、1年契約を締結。ヤンキース時代のピンストライプ姿から赤を基調としたエンゼルスのユニホームに衣替えしたことで、日本メディアは新たに「赤ゴジラ」と呼んだ。その期待値は自然と高まった。
しかし10年のシーズン開幕直後こそ、エンゼルス側の期待に違わぬ活躍を見せていたが、5月以降は徐々に失速。後半戦に入ると地元メディアから「今季限りで戦力外の可能性」を指摘され、自身と入れ替わる形でレンジャーズへ移籍したウラジミール・ゲレロ(21年に大谷と本塁打王を争ったゲレロの父)が大活躍していたこともあって猛烈なバッシングを浴びた。
シーズン終盤になって打棒の調子が多少持ち直したものの、信頼を回復するまでには至らず。9月8日のインディアンス戦では巨人でルーキーイヤーだった1993年シーズン以来となる「代打の代打」をソーシア監督から送られる屈辱まで味わった。
同年の夏場以降は相手先発が右腕でもスタメンを外されることが増え、どんな時でも取材に対応していた松井がこのころからは明らかにナーバスになり、幾度かクラブハウス内に引きこもってしまう姿も多くの関係者や報道陣の間で目撃されている。
同年10月3日の敵地レンジャーズ戦には「5番・DH」で先発し、先制21号2ランを含む3打数2安打2打点。この日が同年のレギュラーシーズン最終戦となり、多少の残留アピールにつながったようにも思われたが、フロントの評価が変わることはなかった。
当時、編成トップだったトニー・リーギンスGMは10年シーズンを終えた松井について「ここまで調子の波がある選手だとは想像もしていなかった」と地元メディアに対して本音を漏らし、バッサリと切り捨てた。加えて印象的だったのはソーシア監督の言葉だ。
報道陣から「3日のレンジャーズ戦が松井にとってエンゼルスでのラストゲームになるのか?」の質問に指揮官は「『彼には大きく失望したから最後だよ』とでも言わせたいのかい?」と答えて周囲を笑わせると、こう続けた。
「確かにシーズン中盤は打てない時期もあったが、それはほかのプレーヤーも同じ。ヒザの調子も問題なく、素晴らしい走りや守備を見せてくれたことで、それを証明した。ヤンキースで7年間もプレーしたヒデキの実績は本物だった。デレク・ジーターが『最高のチームメート』と評したのは真実だよ」
だが再契約については「GMが決めること。まだ分からない」と言葉を濁し、あくまでも自分にはイニシアチブがないことを強調していた。とはいえ、当時のエンゼルスで「全権監督」の立ち位置にあったソーシア監督がリーギンスGMとともにチームの編成権を握っていることは関係者ならば誰もが知っていた事実である。一時期、日本人メディアの間で「ソーシア監督は〝タヌキ〟」と揶揄されていたのは、こうした背景もあった。
松井獲得に〝直接出馬〟し、その場で本人に対して外野手起用の約束と全試合出場を熱望するなど肩入れしていたはずのソーシア監督は見切りも相当に早かった。結局のところ松井はエンゼルスから翌11年シーズンの契約を提示されず、アスレチックスへ移籍することになる。
00年から18年まで19年間、エンゼルスを率いたソーシア監督は指揮官として最後のシーズンでくしくも大谷のルーキーイヤーと重なった。後年、松井と大谷を知る〝名将〟は「ヒデキはスマートな選手だった。どちらかと言えばショウヘイのほうがパワーがあるタイプだと思う」と評している。



















