【平成球界裏面史 阪神・遠山&葛西編】6年連続Bクラスの阪神は、平成11年(1999年)から名将・野村克也監督を招へいし、チーム再建を託した。浮上するには13年連続負け越し中の宿敵・巨人を叩くことが絶対条件だが、松井、清原、高橋らを擁する強打線に立ち向かうのは戦力的に厳しく、1年目は負け越しで最下位に終わった。

野村克也監督(2001年6月)
野村克也監督(2001年6月)

 守護神不在の中、野村監督はリリーフ左腕の遠山が松井に13打数無安打と滅法強かったこと、ロッテ時代に野手の経験があったことに着目した。「弱者が強者に勝つには知恵を使わないと勝てない」。2000年、野村監督は左キラーの遠山とサイドスロー右腕で右打者に強かった葛西による変則継投「野村スペシャル」を編み出した。

 左右の打者に合わせ、先に投入した方が抑えるとベンチに下がらずに一時的に一塁守備に回り、打者1人を挟んで再登板するワンポイントリレー。2人が1イニングにマウンドと一塁を行き来する奇策は「遠山葛西遠山」とも言われ、対巨人だけでなく、何度も勝負どころで痛快に相手を封じ込んだ。

ゴジラ相手に無双した遠山(1999年6月)
ゴジラ相手に無双した遠山(1999年6月)

 チームはこの年も最下位ながら、遠山は54試合で2勝、3セーブ、防御率2・55、葛西は43試合で7勝6敗、17セーブ、防御率2・45の好成績を収め、野村監督の期待にこたえた。

ハイタッチする葛西(左)と遠山(2000年5月)
ハイタッチする葛西(左)と遠山(2000年5月)

 しかし、当人は複雑な気持ちだったという。マウンドだけでなく、不慣れな一塁守備の重圧。練習はしていても不安はつきまとった。2002年を最後に引退した遠山氏はこう打ち明ける。

「葛西に悪いな、と思ってました。僕は内野手の経験があったけど、葛西は投手のゴロ捕しかやったことなかったですから、比重は僕の方が軽かった。『飛んでくるなよー』と思って守ってました。内野手からの送球を捕るのもすごく緊張感を持ってました。内野手が横の動きとか変な体勢で捕った送球ほど変化する。シンカーするし、無回転みたいな球とか」

葛西がマウンドに立つ中、一塁守備につく遠山(2000年5月)
葛西がマウンドに立つ中、一塁守備につく遠山(2000年5月)

 ある日の巨人戦で緩く回転する一塁ゴロが飛んできた。「瞬間的に下から取ると弾くと思ったからグラブを上から被せる形で取った。経験があったから伏せて取ってアウトにできた」。すると相手ベンチで清原が「OK」のジェスチャーをしているのが見えた。その捕球の仕方で〝正解〟というサインだった。

 気持ちのコントロールも簡単ではなく、葛藤も抱えていた。「本当言えばワンポイントじゃなくて1イニングを任されたかった。1回マウンドを降りると、フィールド内にはいても疲労感が違った。もう一度行って投げているんですけど、モチベーションの持ち方が難しかった。緊張感はあっても対戦用の闘争心があやふやなうちに終わったような…。恥ずかしいところもありましたよ。本音は『右打者でも俺にいかしてくれよ』と…。だから7試合くらいで終わってほっとしました」。野村監督は「1回でも失敗したらもうやらない」と決めていたという。

 投手陣の苦しい台所事情が生んだ「弱者の兵法」。〝柔よく剛を制す〟知将ならではの采配だった。