【平成球界裏面史 阪神乱闘編】阪神の数ある乱闘騒ぎの中で最も印象深いのが、平成元年(1989年)5月31日のヤクルト戦(神宮)での「1イニング2度乱闘」だ。この日は先発の野田が崩れ、5―10と劣勢で迎えた6回裏に〝事件〟が起きた。
ルーキー右腕の渡辺伸彦が4番・パリッシュの左腕に死球を与え、激怒したパリッシュがマウンドに詰め寄った。制止に入った捕手の岩田にチョップを見舞い、両軍ベンチが入り乱れて大乱闘が勃発。大暴れしたパリッシュが退場となり、いったんは興奮が収まったかに見えた。
しかし、火ダネは消えていなかった。二死後、マウンドの渡辺のストレートが今度は中西の頭部付近に迫り、怒った中西が渡辺に向かって突進。岡田らの内野陣が体を張って止め、両軍入り乱れておしくらまんじゅう〝第2ラウンド〟が始まった。
その間、渡辺は三塁からレフト方向に〝避難〟したが、内野での騒ぎをヨソにヤクルトの小谷投手コーチが追いかけてきたことでセンターからライト付近まで逃げ回った。逃走中は阪神ファンの「頑張れ」「逃げ切れ」の声援のおかげで何とか無事だったが、渡辺は危険球でセ・リーグの退場者第1号となった。小谷コーチは肉離れを起こしたという。
伏線はあった。先発の野田が早々にKO。3回に2番手の岡部が暴投で本塁ベースカバーに入った際、突入してきた三走・パリッシュと交錯して負傷退場の憂き目にあった。3番手の工藤はパリッシュにビーンボールを連発するなど、不穏ムードが続く中、6回に打者一巡の猛攻を受け、4番手の渡辺のパリッシュへの死球で、両軍の怒りが爆発した。
守備走塁コーチだった柏原純一氏が振り返る。「当時はやられたらやり返せ、が当たり前だから乱闘は普通だよ。岡部の負傷の報復があったと思う。ひどいスライディングをされて〝いってまえ〟になったんじゃないか。クリーンアップは狙われるよ。ヤクルト側も死球が1回ならいいけど、1イニング2回になったらいくわね。引っ込みがつかなくなる。故意か故意じゃないかは分かるからね」としている。
外野まで逃げた渡辺は試合後に「すっぽ抜けただけで狙ってはいない」と話したが、柏原氏は「渡辺もかわいそう。〝やり返せ〟とベンチから言われていたと思う。本意じゃなくても当てろと言われたら当てに行くよ。若い投手、一軍半の投手はそういうこと(報復)を言われやすかった。ローテ投手にはやらさないよ」と明かす。
この試合は退場者が3人。全イニングにどちらかのチームが得点する荒れた展開となり、阪神は7本塁打しながら9―13で敗れた。パリッシュは本塁打王を獲得し、オフにはまさかの阪神に移籍。因縁の渡辺とチームメートになったが、キャンプで握手を交わして和解している。
















