【平成球界裏面史 イチロー編(1)】鈴木一朗は平成3年(1991年)のドラフト4位でオリックスに入団した。愛工大名電では投手として甲子園にも出場したが、三輪田スカウトは鈴木の打撃の素質を評価し、野手として指名された。
非凡な才能を秘めながらもまだまだ線が細く、土井正三監督が一軍に定着させることはなかった。二軍で河村打撃コーチと右足を揺らせてタイミングを取る「振り子打法」を完成させるが、一軍首脳陣に歓迎されず、土井監督も〝ニュータイプ〟の起用を戸惑った。
そんな若者に光を当てたのが、仰木彬監督だった。93年オフのハワイ・ウインターリーグを新監督として視察し、鈴木の打撃に目を奪われた。翌年に登録名を「イチロー」に変更して1番で起用すると、水を得た魚のように安打を量産していった。イチロー〝出現〟を近くで見ていた藤井康雄氏はこう振り返る。
「仰木さんがすごいのは、野茂(元近鉄)もそうだけど、どんなフォームでも抑えればいい、打てばいい、と選手の個性を大事にする。変わったフォームでも触らない。野茂だってあのフォームじゃクイックが遅いし、いつもフルカウントの投球になる。コーチとして見たら変えた方がいいと思ってしまうんだけど、仰木さんはイチローにも触らず、そのまま生かせるというのがすごい」
ヘッドが最後まで出ない卓越したバットコントロールで内野手の一歩目を遅らせ、一塁ゴロもベースカバーを俊足で追い抜いていく。その年のイチローは210安打、打率3割8分5厘。
「わざと詰まらせたり、わざと振り遅れたり、ワンバンをヒットにしたり、見たことのないプレーが起きる。僕らと次元が違った。辞書にないというか、3割8分も打つ感覚が分からなかった」(藤井氏)
球史を塗り替える活躍を見せた天才・イチローは一気にスーパースターに駆け上がる。人気が爆発し、95年にリーグ制覇、96年には日本一。研究され、厳しい内角攻めをされる中で結果を出し続け、どのチームのエース級もお手上げだった。
技術のすごさだけでなく、大きなケガとも無縁。同僚だった〝デカ〟こと高橋智氏は日ごろの鍛錬と意識の高さに舌を巻いていた。
「あいつは体は硬いんだけど、野球に関する柔軟性があった。股関節の柔軟もずっとやっていたし、野球で一番大事なところを理解し、ケガをしない体を継続させていた。ライオンや虎はウエートをしない。体重を増やすのは間違っている、と言っていた。増やすとどこかに負荷がかかる。だからほとんど体重を変えていない。動体視力、持って生まれた打撃の技術、それを向上させるためにも体が動かないとダメだからね」と明かしている。
神戸の本拠地球場から車で数分の合宿所生活。打席に入るまでの一連のストレッチ動作と同様、日々のルーティンも崩すことはなかった。試合後は毎日、神戸市内の焼き肉店に通い、同じ席で同じメニューを食べ、夜中に合宿所に帰って室内練習場の電気をつけると、マシン打撃の打球音を深夜まで響かせた。
試合のない月曜日は決まって午後から愛車を2時間かけて洗車し、グラブやスパイクを磨くのと同様、入念に細部まで手入れした。ちなみに95年オフの契約更改で給料の使いみちを聞かれ「洗車道具のワックスとスポンジを買いたい」と答えている。
同じ時間に寝て起き、試合を中心に逆算してストイックに行動する。そんな「変わらない」男が常に変化・進化させていたのが打撃だった。当時、日産自動車のCMで自ら発していた「変わらなきゃ」のキャッチコピーの通り、毎年のようにキャンプで新しい姿を見せた。(敬称略)















