日本で球史に残る最強助っ人と言えば近鉄、巨人などで活躍したタフィ・ローズに違いない。平成8(1996)年に来日し、13年間で本塁打王4回、打点王を3回獲得。通算464本塁打を残した大砲が、日本野球に失望したシーズンがある。
近鉄時代は中村紀洋、フィル・クラークらといてまえ打線の中核を担い、平成13(2001)年には北川博敏による「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打」で12年ぶりのリーグ優勝を達成。歓喜の一方でローズはどうすることもできない「聖域の壁」に直面していた。
ハイペースで本塁打を量産し、9月24日の西武戦で松坂から55号を放って王貞治の持つ日本記録に並んだ。26日に大阪ドームで奇跡の胴上げを果たし、残り4試合。助っ人外国人による記録更新に注目が集まる中、30日のダイエー戦(福岡ドーム)を迎えた。試合前に相手指揮官の王監督から「60本打てよ」と激励され、梨田監督の配慮で打順も1番。舞台は整ったかに見えた…。
しかし、相手バッテリーは勝負を避けた。敬遠気味の2四球で2打数ノーヒット。全18球でストライクゾーンに来たのはわずか2球だった。試合後、ローズは「記録を守りたいならそれでいい」と悔しさをにじませ、肩を落とした。チームに溶け込み、日本の野球をリスペクトしていたが、優勝の後で味わうまさかの失望感…。盟友の中村紀も「これだから日本の野球はダメなんだ」と助太刀した。
さらにダイエーの若菜バッテリーコーチが「ウチが打たれるわけにはいかない。王さんは日本球界の象徴で記録に残らなければいけない」「外国人はいずれ帰る」などと口にしたことで波紋を広げた。王監督は敬遠指示を出しておらず、ダイエー側も先発の田之上の最高勝率のタイトルがかかっていた。誰しも打たれて不名誉な形で歴史に名を残したくないし、強打者への敬遠策は戦法の1つでもある。
しかし、この若菜コーチの故意を認める発言で世間は「外国人に抜かれないために勝負を避けた」「人種差別ではないのか」と批判的な目を向け、川島コミッショナーまで「新記録のチャンスを故意に奪うことはフェアプレー精神に外れる」と異例の声明文を出す騒ぎに…。ローズは残り試合も重圧と力みに苦しみ、あと一歩で記録更新が阻まれた。
近鉄のヘッドコーチだった伊勢孝夫氏が当時を振り返る。試合前に愛弟子のローズに「ヒットはあってもホームランは打たせてもらえんぞ。あきらめろ。打てる球は来ない。覚悟しとけ」と忠告し、予想通りの展開になったという。
「王さんが勝負するな、なんて言うわけない。若菜や尾花(投手コーチ)が気を使ったんだろう。王さんは国民的な英雄だから仕方ない。見ていて複雑だった。打たせてやりたい気持ちもあるし、かといって王さんを簡単に抜いていいものか、というのもある。そのへんが日本人らしいところでもある。55本の数字ばかりが1人歩きしていた時代。逆の立場なら…私も同じようにしていただろう」。〝世界の王〟は日本人の誇りであり、助っ人外国人に超えさせるわけにはいかない。そんな思いを伊勢氏は理解もしていた。
こうした「聖域の壁」は翌2002年も続いた。55本塁打の西武・カブレラが残り5試合で勝負してもらえず、王ダイエーには露骨に勝負を避けられた。タイ記録に終わったカブレラは後に米メディアESPNに「彼らは私に記録を作らせたくなかった。最後の20打席はストライクは1球しかなかったと思う。記録はすべて日本人のためのものだ」と心中を吐露している。
そこから11年後の2013年、ヤクルト・バレンティンが3人の持つ記録を破り、シーズン60本塁打の金字塔を打ち立てる。1964年の王の記録から49年ぶりの更新だった。この時もヤクルトの一軍総合コーチとして現場にいた伊勢氏は「打たせるな、という雰囲気は全然なかった。60本いくぞ、と言っていたからね。ローズのころとは違って意外とスンナリいけた」と振り返る。そして昨季、ヤクルト・村上宗隆は苦しみながらもシーズン最終戦で56号本塁打を放ち〝王超え〟を果たした。
時代とともに勝負への向き合い方も変化する。1985年に54本と記録に迫った阪神・バースを含め、2001のローズ、2002年のカブレラはまだ「王超え」を許されない時代だったのかもしれない。

















