【平成球界裏面史】平成3(1991)年から同17(2005)年まで(97年を除く)西武担当、巨人担当として、清原和博の特大アーチや勝負強さを発揮した場面を何度も見た。2001年9月8日のヤクルト戦(東京ドーム)で6回にホッジスから放った一発は思わず声が出た。右中間の「SECOM」の看板を直撃したのだ。当時、流し打ちの看板弾は史上初。漫画だった。

 数えきれないほどの打席の中で最も衝撃を受けたのが2001年6月9日の阪神戦(東京ドーム)の第5打席だ。この試合、初回こそ四球で歩いたが、3回は右翼に12号同点3ラン、4回はバックスクリーン右に13号3ラン、5回もバットを折りながら左翼へ14号2ランと3打席連発で迎えたのだ。

 6回二死満塁。一発が出ればプロ野球記録に並ぶ4打席連続本塁打、12打点はプロ野球新記録だ。東京ドームの満員の観客、テレビを見ていた野球ファンが固唾を飲んでいた。巨人ベンチも期待していた。しかし…。谷中の初球、外角のスライダーをフルスイングすることなく、バットを合わせた。恐ろしく自然に。センター返しの力のないライナーは二塁手のグラブに吸い込まれた。何とも言えないため息が充満した。8回に1打点を加え、9打点として自己新を更新し、球団記録に並んだが、どうも釈然としない。

 試合後、「なぜ、狙わなかったのか。フルスイングして凡退しても誰も文句を言わないのでは」と聞くと、返ってきたのは「二塁走者が目に入ったからつい(バットを)出してしもうた」だった。

高橋由伸を〝珍タッチ〟で迎える清原(2002年5月)
高橋由伸を〝珍タッチ〟で迎える清原(2002年5月)

 そう、これが打者・清原和博の本質。PL学園で叩き込まれ、西武で求められたチームを勝たせるための打撃だったのだ。後日、東スポの記者が別件の取材で、PL学園で甲子園通算58勝、優勝6度の名将・中村順司監督(当時・名古屋商科大監督)を取材にうかがったところ、この二直の話題になり、「あの打撃を見たとき、教えたことは間違ってなかったんだと思うと同時に、清原の個性を殺してしまったんじゃないかとも思った」と話されたそうだ。

 そういえば2004年6月4日のヤクルト戦で放った通算2000安打もセンター返しの単打だった。

 現役時代、番長と呼ばれ畏怖されていた清原だが原点は「フォア・ザ・チーム」だ。巨人に移籍して2年目、1998年から清原は太ももを痛める回数が増えた。肉離れして戦線離脱するすることもあった。復帰しても太ももは万全ではない。しかし、そんな状況でも打者が安打を放つと二塁から本塁へ全力で突入した。

「無理せず三塁で止まってもいいのでは」の問いにはこう返ってきた。「選手にとって、特に一軍と二軍を行ったり来たりしているような選手にとって打点が付くか、付かないかは大きいんや。その1打点で野球人生が左右されることもある。それにな、走り出したら(太ももを)痛めているとか忘れてしまう」

 その後も本塁への突入は続けた。清原の男気に救われたり、成長した選手は少なくないはずだ。

中居正広のあいさつを受ける清原(中央は長嶋一茂、2001年)
中居正広のあいさつを受ける清原(中央は長嶋一茂、2001年)

 西武担当時代、森祇晶監督との会話で「無冠の帝王と呼ばれている清原が打撃タイトルを獲得したらどう変わるんですかね」と尋ねたところ一喝された。

「お前は…、本当に野球を知らんな。4番打者にとって一番価値があるのは何だと思う。チームを優勝させることだぞ。キヨ(清原)が何度日本一になっているか知ってるだろう。好き勝手に打たせていたら、いくつもタイトル獲ってるよ」

 当時の西武はリーグ優勝するまではチーム打撃優先。待てのサインも出されたし、カウントを追い込まれたり、僅差の試合展開では進塁打を求められた。

 現状では見通しは立たないが、清原が監督としてどんな野球をするのか見てみたいと思う。おそらく、落合博満監督時代の中日のような基本に忠実で失点を防ぐ、固い野球をすると思う。