令和に振り返る、光と闇の「平成球界裏面史」。あの時代の主役の一人は間違いなく清原和博だった。昨年から地上波で解説者を務め、今春の中日キャンプでは臨時コーチを務めるなど復帰に僅かながら前進しているのは歓迎すべきだろう。西武を振りだしに巨人、オリックスと3球団を渡り歩いたが、その中でも印象深いのは97年から2005年まで在籍した巨人。こわもての外見、「番長」の呼び名も相まって数々の武勇伝を残した。今回の平成球界裏面史では「球団急襲編」と「遺恨マッチ編」を紹介する――。

【平成球界裏面史・清原和博〝球団急襲編〟】平成16(2004)年11月8日夕方、東京・神田の巨人の球団事務所1階の記者席は、文字通り蜂の巣を突いたような騒ぎになった。清原が清武英利球団代表と直談判に訪れたのだ。

 この時、清原は野球人生最大のピンチに直面していた。6月19日の阪神戦で受けた死球によって左手小指を骨折し、ほぼ3か月戦線離脱。出場は40試合にとどまり、打率2割2分8厘、12本塁打、27打点は全て自己ワーストだった。シーズン途中から就任1年目の堀内恒夫監督との不仲がささやかれ、シーズン終了後は05年が4年契約の最終年であるにもかかわらず「放出」「戦力外」と報じられた。

 会談を終えた清原は、うっすらと涙を浮かべ、「マスコミの皆さんもご存じの通り、いろんな報道があったので自分の置かれている立場を球団に確認したかった。ただ一つだけ、今後のチームの編成方針を球団主導で行くのか、現場の監督がするのか…。その一点を聞きたかった」と淡々と思いを吐き出した。さらに「巨人が好きでFAで来たわけですから」と巨人愛を強調した。

 一方、清武代表は「来年は4年契約の最後の年。ひとつの神話を作った選手だから、本人の希望は大事にしたい」と一定の理解は示したものの「チームの編成はフロント。一方、グラウンドに入れば監督」と起用法は堀内監督に一任すると明言した。

 宮崎で秋季キャンプ中の堀内監督は9日、清原の来季の起用法や処遇については「分からない」と言葉をにごした。11日に清武代表は来季構想はスピード感があるチームと明かし、清原の適正に疑問符を付けた。

 その後も球団側から「残留」という言葉が出ることはなく、逆に「阪神」「オリックス」「楽天」が移籍先として浮上。直談判は裏目に出たと思われた。

 そんな中、17日に清原と清武代表が会談。清武代表は「途中経過は言わない」とかわしたが、この直後から球団のトーンが「残留」に微妙に変化。26日に熱海で行われた球団納会で滝鼻オーナーが「来季一丸となってやるため、シコリの残らない方法論を考えて取りたい」と残留を容認した。

 清原の熱意と23日に東京ドームで行われたファンフェスタで満員のファンが「キヨハラコール」を送ったことを受け、球団が折れたという形だったが、どうも納得できない。取材を進めると読売関係者からとんでもない情報がもたらされた。
「どうも清原は一筆もらっていたみたいだよ。それで球団も残留を認めるしかなかった」

 17日に行われた清武代表との2回目の会談で、清原はある文書を差し出した。これを見た清武代表はガク然となった。そこには「4年の契約期間中は清原選手の同意がなければ放出することはできない」「4年目は契約は清原選手の意思を尊重する」――。さらに2001年11月某日の日付と読売最高首脳の署名が入っていたという。清原がFA残留した際に交わしたものだった。直談判は勇み足確認だったのだ。

 とんでもない隠し玉の出現に巨人は騒然。覚書の有効性について、読売本社、球団の顧問弁護士とそれぞれ相談し、第三者の弁護士の判断も仰いだ。答えは「有効で、裁判に持ち込んでも勝ち目はない」だったという。

 この報告には堀内監督も絶句。「そういうものがあるなら仕方がない。自分の野球を否定されたわけではない」と受け入れた。当時の巨人は平成13年から16年の間に球団代表が4人交代しており、情報共有が不十分だったことが原因。防げた衝突だった。

 30日に清原は硬い表情で残留会見。一連の騒動について「球団に行ったことにより、球団ならびに監督にご迷惑をかけたことをおわびしました」と謝罪の言葉を述べた。

 一選手が起用を巡り、球団を訪れて代表と直談判するという前代未聞の騒動は22日目で幕が下りた。当時、清原の行動を否定的に捉えて記事を書いたが、今なら理解できる。読売首脳に強い言葉で引き止められて残留を選択。その約束が反故にされそうだったのだ。

 翌平成17年、巨人は5位に沈み堀内監督は退任。清原は96試合に出場し、22本塁打を放ったものの、52打点で打率は自己ワーストの2割1分2厘に終わり、オリックスに移籍。巨人、堀内監督、清原の三者ともバットエンドだった。