【平成球界裏面史 阪神パリッシュ編】メジャー通算256本塁打の大砲で「バースの再来」「ワニ男」と言われた助っ人のラリー・パリッシュが平成2年(1990年)8月に突然、阪神を去った。前年の本塁打王ながらヤクルトをオフに退団。阪神に移籍した36歳の大砲は、開幕から「4番・一塁」で存在感を見せ、落合(中日)と本塁打と打点のタイトル争いを繰り広げる。チームが低迷する中でファンの注目はパリッシュの個人タイトルの行方に集まった。
ところが、8月中旬に古傷の左ヒザが悲鳴をあげ、パリッシュは22日に中村勝広監督に休養を申し出た。「タイトルにはこだわっていない。チームの将来のために若手を使ってもらっていい」。そして27日のヤクルト戦後に「もうプレーできない」と涙を浮かべ、チームメートに別れのあいさつをした。補強器具をつけてのプレーは限界だった。
28日に球団事務所で会見を開き、現役引退をスピード発表。「8歳からずっと野球をやってきたボクにとって野球は人生そのもの。しかし、内角の速いボールを打てなくなったときに、もう現役としてやっていけないと思った」。その時点で28本塁打はリーグ1位。あまりの潔さに多くのファンを驚かせたが、チームにとっては大きなダメージとなってしまった。
当時首脳陣の1人だった柏原純一氏は「ヒザがよほど悪かったんだろう。でないと急に辞めたりしない。下半身が細くて背が高く、腕力の強い打者だった。足を引きずりながら走っていたよね。三振も多いし、神宮は人工芝。野村さんもそのへんを総合的に判断して解雇したんだろう」と話す。本塁打王とはいえ、関根監督から指揮を任された野村克也監督が構想外と判断し、阪神に移籍。くしくも野村監督の見立てが的中してしまった。
阪神退団後、米国フロリダの教育リーグに帯同していた柏原氏は現地でパリッシュと再会した。「フロリダ出身の彼が馬の輸送車を運転してあいさつに来てくれたよ。なんだ、このトラックは…と思ったらカウボーイハットにブーツを履いたパリッシュだった」。わずかな在籍ながらお世話になった球団に律儀にあいさつに寄ったという。
88年に〝最強助っ人〟バースが去り、89年にフィルダーも1年で退団した。低迷脱出の救世主と見られたパリッシュも途中帰国となり、中村監督の1年目は優勝した巨人に36ゲーム差を付けられての最下位に終わっている。
















