【平成球界裏面史 ピッチャー新庄編】平成10年(1998年)のオフ、6年連続Bクラスに沈む阪神は野村克也監督を三顧の礼で迎え、チーム改革を託した。指揮官が再建のキーマンに指名したのが、スター選手だった新庄剛志だった。野村フィーバーが巻き起こる中、98年の高知・安芸で秋季キャンプで新庄の鉄砲肩に注目し「ピッチャーをやってみないか」と声をかけた。

ブルペンで新庄の投球を見つめる野村監督(1999年2月)
ブルペンで新庄の投球を見つめる野村監督(1999年2月)

 翌99年の春季キャンプから実戦プランがスタート。自慢の肩に注目してくれたことで新庄もその気になり、紅白戦2試合に調整登板すると、制球難ながらも最速147キロとポテンシャルを見せつけ、投手ミーティングにも参加するなど二刀流の練習を続けた。本職の投手より球速があったことで投手陣からの反発もなく、新庄も「センターからマウンドに呼ばれたい」と胸を膨らませた。

 そして3月5日の巨人とのオープン戦(藤崎台)の4回、新庄の名前がアナウンスされた。元木を二飛、二岡を遊ゴロ、後藤を中飛と1イニングを三者凡退に抑えてみせた。いよいよ「投手・新庄」が本格化するかに見えたが、その試合の最終打席で左太ももを故障。さらに21日のダイエー戦(福岡ドーム)で2度目の登板を果たすと、松中に一発を浴び、再び左太ももを痛めてしまう。いずれも投球の影響と見られ、一気にトーンダウン。さすがのプリンスも二刀流調整に疲れ、公式戦登板のないままに計画は頓挫した。

オープン戦で思いっきり投げ込む新庄
オープン戦で思いっきり投げ込む新庄

 話題作りの側面もあったにせよ、新庄の打者としての素質を何とか開花させたい指揮官の作戦だった。守備力、強肩だけでなく、遠くに飛ばす天性の打撃力を持っている。投手を経験させることで投手心理の一端が分かれば、打撃に生かされるはず。さらに万が一、軌道に乗ればワンポイントで使える可能性も出てくる。指揮官は新庄をおだてることでその気にさせ、潜在能力を引き出すことを狙った。

 天然のプリンスと百戦錬磨のID監督の合体による化学反応はあったのか…。新庄が師と慕い、打撃コーチだった柏原純一氏は二刀流挑戦をこう話す。「新庄が肩が強いのは知っていたから反対はしなかった。それが打撃に生きればいいし、やってみたらいいと思った。監督からは何も聞いてなくて投球練習の当日に聞いたよ。投手を経験することは打撃にいい影響を及ぼす。オープン戦に2試合投げたけど、公式戦は無理だった。野村さんもそこまで考えていなかったと思うよ」

 さらに「スピードは140キロ半ばくらい出てたけど、野手の球だった。球速は同じでも投手の球はベース上でグッと伸びる。打ちに行ったときに差し込まれる。野手の球はスコーンと打たれてしまう。球持ちが違うんだ。球が遅い投手でも球持ちがいいと空振りが取れる」と野手投げの域を出なかったと話し、打撃へのプラスについても「投手挑戦が彼にとってストレスの解消になったのか、打撃の役に立ったのか…。わからないなあ。にぎやかしで終わったかもしれないね」と苦笑いを浮かべた。

左から野村監督、新庄、柏原コーチ(1999年8月)
左から野村監督、新庄、柏原コーチ(1999年8月)

 大谷(エンゼルス)が日本ハムで二刀流に挑戦する14年前、道を切り開こうとした新庄。その年はケガの影響もあって打率2割5分5厘、14本塁打だったが、翌2000年は打率2割7分8厘、28本塁打、85打点といずれもキャリアハイをマーク。選手としての視野を広げ、2001年からメジャーに旅立った。