【球界平成裏面史・巨人編(1)】「すべて、監督がヘボだから、負けました!」
平成2年(1990年)10月24日、西武球場での日本シリーズ第4戦で4連敗した後、ベンチ裏に出てきた藤田元司監督は、叫ぶように言うと、囲んだ記者をかき分けて歩き始めた。私は藤田の前にいたが、すごい圧力で脇に押しのけられた。
第1戦0―5、第2戦5―9、第3戦0―7、第4戦3―7と、全試合で完敗。「野球観が変わった」という岡崎郁の発言が語り草になった。
藤田にとっては西武に3勝4敗で惜敗した昭和58年(83年)年以来、巨人としては王貞治監督時代に2勝4敗で敗れた昭和62年(87年)年以来の再戦だった。近藤昭仁ヘッドコーチも、5年間西武の守備走塁コーチを務めながら「能力不足で切られた」と言われており「絶対に負けられん」と腕をぶしていたものだ。
「俺の悪口を森(祇晶・西武監督)に吹き込んだやつが、まだ西武にいるんだからな。打線は互角かもしれないが、投手や守備ならウチが上だ」
しかし、当時の〝王者西武〟は、いまのソフトバンクのような球界随一の常勝軍団。巨人ナインは戦前から恐怖心を抱いている、と私は感じた。
優勝を決めた後、東京ドームで日本ハム―西武戦を偵察した宮本和知、村田真一らバッテリー陣は清原和博が看板直撃の一発を放つと「うおっ!」と驚きの声をあげ、日本テレビの放送席から身を乗り出した。川崎市宮前平のホテルでの合宿では清原、秋山幸二、デストラーデのビデオを見て「すげえパワー」「投げ損なったらヤバイ」などと話していたという。
この年、巨人は9月8日に優勝を決め、10月20日のシリーズまで約1か月半も空いた。その間、緊張感が緩み、試合勘が薄れたのも確か。時間が有り余っていたからか、時々夜の街へ選手を誘い出したコーチもいた。
藤田と投手陣の間でもひと悶着あった。シリーズ前の全体ミーティングで、シーズン中の報奨金が野手よりも少ないと、投手陣が不満を訴えた。そこで藤田が主力投手10人を呼びつけたのだ。
「そんなにゼニがほしいのか! じゃあ、おまえらでこれを分けろ!」
目の前に叩きつけた札束が300万円。藤田が受賞したセ最優秀監督賞の副賞だったという。
第1戦は2年連続最多勝と最優秀防御率を獲得した斎藤雅樹ではなく、大方の予想に反して槙原寛己が奇襲先発。槙原が初回、デストラーデに3ランを浴びて、このシリーズの帰すうは見えた。
3連敗した直後、藤田は水野雄仁を呼び、翌日の第4戦先発を打診している。が、シーズン中、先発登板のなかった水野には無理な相談だった。仕方なく宮本を先発させたら、4連敗である。
なお、現ソフトバンク監督・工藤公康は第2戦の西武先発で、4回途中に降板して勝ち星なし。現巨人監督・原辰徳は4番で15打数4安打、打率2割6分6厘と、成績は芳しくない。巨人4連敗の後遺症は翌年以降も長く、深く尾を引いた。(赤坂英一)
=続く=












