【野球探偵の備忘録91】1996年、夏の甲子園決勝。延長10回裏一死満塁の場面で、松山商の右翼手・矢野勝嗣が投じた本塁へのダイレクト送球は、今も高校野球ファンの語り草になっている。伝説のワンプレーの直前、矢野に代わってベンチに退いた新田浩貴が“奇跡のバックホーム”23年目の真実と、そこに至るまでの壮大なプロローグを明かした。
「矢野さんのところに打球が飛んだ瞬間、うれしくって仕方なかったんです。“俺じゃなくてよかった!”って。よく『誰もがサヨナラを覚悟した』って表現されますが、僕は不思議と負ける感覚はなかった。あの交代がなければ、あやうく僕が戦犯になるところだったんですから」
今から23年前、夏の甲子園決勝。松山商の先発・新田は熊本工を9回二死まで2失点に抑える好投で、春夏通算7度目の全国制覇へあと一歩に迫っていた。3―2、深紅の大優勝旗まであと1人というところで熊本工の6番・沢村にソロ本塁打を被弾。試合は振り出しに戻り、そこから筋書きのないドラマが始まる。
延長10回裏、一死満塁で迎えたサヨナラのピンチ。熊本工の3番・本多が放った右翼への大飛球は、三塁走者の星子がタッチアップするには十分すぎる飛距離があった。右翼には降板した新田が入っていたが、この直前に矢野に交代していた。矢野は浜風に押し戻された打球を捕球後、勢いそのまま本塁にダイレクト送球。大暴投とみられた返球は、今度は浜風に乗り、ここしかないというピンポイントで捕手・石丸のミットに収まった。熊本工に傾いていた流れは一気に松山商に。延長11回表に矢野の二塁打から3点を挙げ、伝説の試合は幕を閉じた。
球史に残る“奇跡のバックホーム”の序章は、新チーム始動の秋までさかのぼる。選手層の厚かった松山商で「球速118キロ以上」の条件をクリアできなかった新田は一度、投手をクビに。しかし、シートバッティングで軒並みストライクが入らなかった投手陣に怒ったコーチの一人が、三塁塁審をしていた新田にマウンドに上がるよう指示を出した。
「たまたま目が合って、夏なのに長袖の練習着を着てた僕を見て『お前、投手か? こんなん誰が投げても一緒じゃ。お前が投げろ!』と。球は遅かったんですが、一応練習としては成立して、翌日からいきなりメンバー入り(笑い)。あのとき三塁にいなければ、僕が投げることも、矢野さんへの交代もなかった」
センバツを経て新田が頭角を現すと、背番号1で打撃の良かった渡部が右翼の守備へ就くように。結果的に、右翼手だった矢野が追い出される形になった。誰よりも肩は強かったもののコントロールに難があった矢野は、普段の練習から暴投を連発。「頼むから、もうやめてくれ」とチームメートから言われることもたびたびあったという。
一方、実質的なエースになった新田だが、右翼の守備経験は全くのゼロ。「まあ、8割落球だったでしょう」と振り返る。場面は戻って甲子園決勝。サヨナラのかかった土壇場で、強肩の矢野を守備に就かせるか、再登板を見越して新田を残すかは、松山商・沢田監督にとって極めて難しい選択だった。ギリギリのタイミングでの矢野の投入について、沢田監督は「天の声が聞こえた」と、たびたび述懐している。
「監督は“天の声”なんて言って美談にしてますけど、僕は『代えてくれ、代えてくれ』と、ずっと祈ってた。あれは矢野さんの出たいという強い気持ちと、僕の消極的な祈りが通じたんだと思ってます(笑い)」
あのとき、もしも直前の交代がなかったら…。
「サヨナラ犠牲フライなら、まだいいですよ。サヨナラエラーだったらと思うとゾッとする。それこそ“奇跡のバックホーム”ならぬ“世紀の大落球”として伝説になっていたかもしれない。本当に、想像したくもないですね」
様々な偶然や思いが重なって生まれた“奇跡のバックホーム”。その鮮烈なワンシーンは、23年の時を経ても色あせることはない。
☆にった・ひろたか 1979年生まれ、愛媛県伊予市出身。小学校2年生のとき、えひめ港南リトルで投手として野球を始める。中学では、えひめ港南シニアに所属。松山商では1年秋からベンチ入り、2年春夏と甲子園に出場し、2年夏に全国制覇。高校卒業後は社会人野球の東芝に入社し、2003年に現役引退。17年から建設会社に移り、営業職を続ける。187センチ、84キロ。右投げ右打ち。












