【中島輝士 怪物テルシー物語(32)】1988年ソウル五輪では、後に西武で活躍する右腕がチームの中心にいました。その名は石井丈裕(プリンスホテル)。社会人チームでは私の同僚として一緒にプレーした仲間です。

 当時、石井は23歳でした。そこに20歳になるシーズンだった野茂英雄(新日鉄堺)、潮崎哲也(松下電器)を加えた3本柱で世界の強豪国と渡り合いました。石井はソウル五輪B組、予選リーグ初戦のプエルトリコ戦に先発して完投勝利。2戦目の台湾戦では同点の9回からリリーフ登板し、延長13回までの5イニングを無失点で抑え、チームにサヨナラ勝利を呼び込みました。

 そして、決勝トーナメントでは大きなヤマ場となった準決勝の韓国戦で完全アウェーの中、7回途中5安打1失点と好投。先制点を与えての降板となりましたが、気迫あふれる投球でその後の逆転勝利につなげてくれました。

 米国との決勝戦にも先発しましたが、4回に4番のティノ・マルティネス(マリナーズ、ヤンキース)に2ランを打たれ敗戦投手となってしまいました。

 とはいえ、大会通算でチームトップの23回2/3を投げて12奪三振、防御率1・14という堂々の成績。五輪が終わった後の88年のドラフト会議では、3学年後輩の右腕・渡辺智男(NTT四国)とともに西武からドラフト指名を受けました。

 渡辺が1位、石井は2位でしたが、石井は会社への貢献が足りないとして当初はドラフト指名拒否の姿勢。プリンスホテルから私が日本ハム、同僚の小川博文がオリックスからそれぞれドラフト指名を受けました。そういった事情もあり、当時の石山建一監督も石井のプロ入りには難色を示されていました。

 その後、西武フロント陣の熱心な説得もあって1位指名の渡辺と同条件とされる契約金7000万円、年俸840万円で入団という流れになりました。同年のドラフト以降も含め、ソウル五輪代表メンバーの20人中13人もの選手がNPB球団に入団しています。社会人野球の世界で、ベテランの域に達していたメンバー以外の若い世代のほとんどがプロ入りした形です。

 88年ドラフト組では巨人1位の吉田修司(北海道拓銀)、広島1位の野村謙二郎(駒沢大)、近鉄1位の米崎薫臣(日本生命)、ヤクルト3位・笘篠賢治(中大)がプロの道に進んでいます。

 石井に関しては、話したいことがまだまだあります。高校時代は、早実で荒木大輔に次ぐ2番手という存在。法大に進んでも、同学年の猪俣隆に次ぐ存在として、エースとして君臨したわけではありません。そんな石井が、どういうふうに存在感を示していったのか。そのあたりもお話ししながら、次回も石井コーナーにさせていただきます。