【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(23)】1988年、ドラゴンズは6年ぶりのリーグ優勝を果たしたが、ビールかけもパレードも行われることはなかった。それは日本一になった西武ライオンズも同じ。この年、昭和天皇のご病状が悪化し、日本中が自粛ムード一色となっていたからだ。

 正直に言えば、優勝してもビールかけがなかったのは残念だった。胴上げはしたけどファンがグラウンドに乱入して優勝ムードを味わう前にみんなベンチ裏に引っ込んだし、何よりビールかけというのは一番優勝したことを実感できるイベントだ。82年にリーグ優勝した後、横浜のホテルでビールかけをしたことは俺のプロ野球人生の中でも忘れられない思い出となっている。

 そんな俺たちの思いをくんでくれたのか、星野監督と中日球団はオフに選手とその家族を集めてささやかなパーティーを開いてくれた。室内練習場にイスを設置してバーベキューやカラオケ、ビンゴ大会を行った。俺も女房と一緒に参加したけど本当に楽しかったのを覚えている。なんていうのかな、チーム全体が家族になったような感覚だった。

 星野監督というと“闘将”や“鉄拳制裁”という言葉を思い浮かべる人も多いと思う。確かに野球に対しては誰よりも熱くて厳しい人だった。「よくあんなに怒れるな」と逆に感心してしまうほどベンチで怒鳴っていたけど、ユニホームを脱げばガラリと変わる。選手の奥さんの誕生日になると花を贈っていたように自分の部下の家族に対して気を使う人だった。このとき行われたパーティーも選手の家族に対するねぎらいの意味があったんだと思う。

 このパーティーでは星野監督がみんなの前で歌を歌った。アリスの「秋止符」という曲だった。この歌には「あの夏の日がなかったら~」というフレーズがあるんだけど、これを聞くと俺たちはみんなこの年の7月8日、猛烈な暑さの中で行われたナゴヤ球場での練習を思い出すんだ。

 7月にドラゴンズは大洋(現DeNA)に3タテをくらった後、札幌での巨人戦もすべて負けて6連敗。優勝は絶望かと思われた。札幌から名古屋に戻るとそのままナゴヤ球場に直行し、クソ暑い中、アメリカンノックを受けた。本当にきつかったんだけどその翌日からドラゴンズは6連勝すると1つ負けた後、また6連勝。猛暑の中でアメリカンノックを受けた日から勢いがガラッと変わったのだからまさに「あの夏の日がなかったら」だった。

 星野監督もコーチも選手もその家族もみんなが笑顔になったパーティー。「現役は引退したけど今度はコーチとして星野監督を男にしたい」。笑い声が響き渡る室内練習場で俺はそう誓っていた。