【越智正典 ネット裏】明日は中日の遠征チームがドジャータウンにやってくる。1988年2月15日、陸送トラックがマイナーリーグのクラブハウスの前でエンジンを止めた。同行の日本通運名古屋の2人の社員が梱包をほどいた。夏用の野球帽が300、ボール230ダース、麦茶が段ボール30箱、耳かき20本、耳かきの保険料は4000円。保険金だけでもしめて659万5299円。キャンプの成果の第一はPL学園高校から入団した新人立浪和義の2番でショート定着である。

 ドジャースがグレープフルーツリーグの日程にドジャース対中日を組んでくれたのは特別であった。彼らにとってオープン戦は調整試合ではない。もう戦いなのだ。3月3日、中日は猛打に叩きのめされた。0―14。その試合の6回、立浪はゴンザレスの強烈なゴロにグラブをはじき飛ばされた。7回、立浪は守備位置をずっと前に決めて、さあー来い! とグラブを叩いていた。ひるまなかった。声はボーイソプラノ。ホルマンスタジアムに広がっていった。

 中日がこの遠征に使ったおカネだけでも莫大である。前年の87年、傘下のセントピーターズバーグの教育リーグにコーチ高橋三千丈(静岡商業、明治大学投手)、山崎武司(愛知工大名電高校捕手、ドラフト2位)、荒川哲男(大宮東高校内野手、同4位)を送ったが、3人の委託料、ドジャース職員の付き添い料…など、諸経費も巨額である。

 3人はよく奮闘し、88年遠征の下地となった。殊勲者である。山崎武司はのちに開花し、中日の優勝弾を決める。これも加藤巳一郎オーナーの慈しみあってこそである。加藤オーナーはときどき二軍の話をしていた。「監督の岡田英津也さん(関西高校、明治大学捕手)はええのおー。田舎の村長さんみたいで…」

 88年4月8日、セ・リーグ開幕。星野仙一40歳。月末に最下位。5月は勝ったり負けたり。5月31日から東京ドームで対巨人3連戦。1、2戦負け。6月2日の3戦目は5―12と惨敗。星野はこの試合に二軍から這い上がってきた仁村徹を代打に起用した。結果は三振だったが、宿舎サテライトホテルでのコーチ会議で叫んだ。「ピッチャーの球を怖がらずに徹ほど踏み込んで打つヤツがいまのセ・リーグにおるか! 徹で勝ってみせるわ」。

 7月、中日はまた札幌で巨人に3連敗。その前の大洋戦に3連敗しているので6連敗。星野は夜の巷に消えた。星野が札幌駅そばの遠征宿舎に戻ってきたのは午前2時半。スタッフが決議していた。「高校野球の昔に帰ろう。攻守交代全力疾走」。

 危機を乗り越えた8月27日、横浜スタジアムでの大洋19回戦の2回裏、銚子利夫が捕邪飛を打ち上げ、捕手中村武志(中日コーチ)がマスクをはね上げた。仁村徹が三塁守備位置から突っ込んでいった。突進しても、この小邪飛を捕れるわけがない。仁村徹の勝利への思いはこうであった。結集力である。中日が優勝を決めたのは、この時だったと言ってもよいだろう。星野仙一は、自分の後任監督に仁村徹と三田の都インで筆者に何度も語っている。 =敬称略=