元DeNA・山本武白志 クリケット転向の勝算

2019年06月05日 11時00分

クリケットに挑戦する山本

【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(85)】このほどプロ野球選手からクリケットへの転向を表明して話題を呼んでいる元DeNA・山本武白志。ロッテで監督も務めた父・山本功児さん譲りの才能で九州国際大付3年夏の甲子園では3本塁打を放つも、プロでは3年で戦力外という現実が待っていた。舞台を球場からクリケット場へと移した2世選手が在りし日の父との思い出とプロでの3年間、新天地での新たな夢を語った。

「ウィキペディアでの僕の肩書が『プロ野球選手』から『クリケット選手』に変わってたでしょ? ああいうのが地味にうれしいんですよ。まあ写真は野球のままですけどね(笑い)」

 2016年に他界した父は、巨人での現役時代に第43代の4番打者を務めた。引退後も打撃指導に定評のあった功児さんが愛息を熱血指導するのは自然な流れだった。普段は優しかったが、野球に関しては誰よりも厳しい。「熱くなるのは血筋ですね。それがダメなことだとも思ってない」。父は心不全で体調を崩してもペースメーカーの装着を拒み、二人三脚の練習を続けた。

 九州国際大付では2年連続で甲子園出場。3年夏に両親の前で本塁打を放った。「父が体調が悪いのにもかかわらず、応援に来てくれた。少しだけ親孝行ができたのかな」

 功児さんの体調は日を追うごとに悪くなっていった。山本が最優先に考えたのは高卒でのプロ入り。「今ここでプロに行かないと父にユニホーム姿を見せられない」。しかし、プロの世界は甘くなかった。

「打席に立っても打てる気がしなかった。アマチュアでは闘争心があったのに、投手に対して向かっていく気持ちがなくなっていく感じで。もともと自信はなかったんです。高校とプロとは違う。すべて自分の実力不足です」。3年目に二軍戦で初本塁打を放ったが、戦力外通告を受けて引退を決意。背番号101のユニホームを脱いだ。

 子供のころから家族で海外旅行をしていたこともあり、当面は語学留学するつもりでいた。それがひょんなことから知人にクリケットを勧められ「動画で見た瞬間イメージが湧いた」と、その場で転身を決意。早速オーストラリアへ渡り「セールで安かったし、日本では買えないと思って」と道具を購入し、現地で練習にも参加。帰国後は日本クリケット協会に連絡を取り、本拠地のある栃木県佐野市へ転居した。

 現在は家賃3万円のアパートに暮らし、JR佐野駅前のラーメン店「日光軒」で週6日のアルバイトに励む。「最初はレジ打ちが全くできなくて。数字が苦手で1030円なのか1万300円なのか分からなかったり…」と苦労しながらも「食事もまかないを食べさせてくれるし、休み前にはご飯を持たせてくれるので。本当に感謝しかないです」と充実の新生活を送っている。

 野球とクリケットは似ているようで全く違う。「野球のスイングは手首を返すんですけど、クリケットは手首を返すとチップばっかりになっちゃうんです」。戸惑いはあるが、日々上達している実感もあるという。将来的には本場にクリケット留学し、プロチームと契約するのが目標だ。「オーストラリアのプロリーグは平均年俸が数億円。一流選手になれば数十億円も稼げる。夢があるじゃないですか。将来的には山本武白志ってプロ野球選手だったの?と言われるようなクリケット選手になりたい」

 長く伸ばした金髪をなびかせ、山本は新たな夢へと歩み始めた。

【クリケットとは】1チーム11人の2チームにより、半径約70メートルのフィールドで行われる。投手が投げたボールを打者がバットで打ち、打ったボールがフィールドを転がる間に打者が走って点を重ねることから野球ともよく比較されるが、打者はどこに向かって打ってもよいなど相違点も多い。英国で発展し、オーストラリアやインドなど英連邦諸国で絶大な人気を誇り、全世界での競技人口はサッカーに次いで2位とも言われる。プロリーグは2008年に発足したインドのインディアン・プレミアリーグが有名で、シーズンの観客動員数は約170万人。トップ選手の年俸は億単位で、年収が30億円を超える選手もいる。五輪では1900年パリ大会で1度だけ採用された。

☆やまもと・むさし=1998年2月17日生まれ。神奈川県横浜市出身。小学3年生から野球を始める。ロッテや巨人で活躍した父功児さん譲りの恵まれた体格と野球センスから地元の名門校で争奪戦となったが、父とも面識のあった若生正広監督を慕い、九州国際大付に進学。2014、15年夏に甲子園出場。3年夏には2打席連続を含む1大会3本塁打をマーク。15年に育成ドラフト2位でDeNAに入団。18年オフに戦力外通告を受けて現役引退。現在は佐野クリケットクラブでクリケットに励む。188センチ、90キロ。右投げ右打ち。