(アントニオ)猪木さんが保持していた株式を取得した(ゲーム会社)ユークスがオーナー社となった直後の2006年1月には、多くの退団者が出ました。西村(修)さんや吉江(豊)さんといった先輩方が去っていって、やっぱりこういう別れは慣れるものではないですし、毎回そのたびにヘコみました。

 特に後輩の安沢(明也)が辞めたのはこたえましたね。望んでプロレスに入ってきたのに厳しい時代で夢を見させられなかったというのは…。俺の責任だって思っていました。安ちゃんは有望だと思っていたし、期待していたので、つらかったですよ。

 この年には師匠の藤波(辰爾)さんも新日本を去りました。今だからこそ分かるんですけど、社長になった人間が退いて、居場所があるかといわれると難しい部分もあるんですよ。藤波さんにもプライドがあっただろうし…。ただ、藤波さんとはその後もリング上で会いましたし、本当に尊敬しています。あの体を見てくださいよ。俺のファイナルロードで触れることもできて光栄でしたね。

 リング上の話になると、06年2月5日札幌大会で中邑(真輔)との3度目のシングルマッチで初勝利を挙げました。「俺が新日本を引っ張ります」と強気な発言をしたんですけど、まだまだ手応え的には盛り上げ切れなかったなっていう思い出です。勝ってうれしいという気持ちよりも「もっとできたな」って気持ちがありました。

中邑真輔(左)に延髄斬りを繰り出す棚橋弘至(右、06年2月)
中邑真輔(左)に延髄斬りを繰り出す棚橋弘至(右、06年2月)

 ただ、中邑に勝ったことで、いろいろなものが見えてきました。後輩に負けっぱなしっていうのは悔しかったですし、1つ返せたのは大きかったんじゃないですかね。屈辱の3連敗を喫する世界線を見てみたかった気持ちも少しありますけど…。

 当時はIWGPヘビー級のベルトをブロック・レスナー(現WWE)が保持し、中邑は1月4日東京ドーム大会で挑戦し敗戦。05年10月から新日本に参戦して快進撃を続けていたレスナーを忸怩(じくじ)たる気持ちで見ていました。ただ、デカくて強くて動けるので、ぐうの音も出ないっていうのは確かでしたね。

 王者不在のまま新日本のシリーズが続いていたのも悔しかった。ベルトがない興行は寂しいということをずっと言ってましたからね。ベルトがあるからこそ選手のヒエラルキーが見え、頂点を目指すというのが正常な構図なので。初めて会場に見に来てくれたファンの方にも王者とベルトの存在があるだけで伝わる部分は大きいですから。

 そんな悔しさを晴らす機会がついに巡ってきました。7月17日の北海道・月寒グリーンドーム大会でレスナーへの挑戦が決定。しかし、この試合で思いもよらなかったトラブルが発生してしまいました――。