2005年は中邑(真輔)とIWGPタッグ王者として活躍していました。ファンの方にしたら見やすいだろうなっていうのはありましたね。今なら海野(翔太)、上村(優也)組みたいな。戦ってみて一緒に共闘しようみたいな王道な流れもありつつ、やっていて楽しかったですよ。
当時のフィニッシュホールドだったスリングブレイドも、中邑が命名してくれたんですよね。「カッコイイじゃん、それ!」って大喜びしたんですけど、後で調べたら刃物が出てくる映画で、中邑なりのブラックジョークだったことが分かって「あの野郎…」となったという(笑い)。
メキシコのCMLLにも2人で遠征に行って、むちゃくちゃ楽しかったですね。中邑は本当に社交性があって、向こうのルチャクラスに行っても器用にこなすんです。一方で俺はルチャの動きに苦戦したりとか、中邑のすごさ、今の姿の片鱗を垣間見た遠征でした。この時、ナウカルパンにあった闘龍門のジムにも行っていたので、オカダ(カズチカ)とも会ってるんですよね。当時17歳くらいで、背の高い子がいるなと思って見ていました。
中邑とのタッグは05年10月30日神戸大会で蝶野(正洋)さん、天山(広吉)さんに負けてベルトを失ったことで解消に向かいます。チームの形ができていたところで「まだまだもう一丁!」とも思っていたんですけど「長くやり続けるタッグではないな」とも感じていたので。11月3日後楽園大会の永田(裕志)さん、中西(学)さんとの試合を最後にシングル戦線へ向かって行きました。結構組んでいたイメージがあるんですけど、期間は1年も満たないんですよね。それだけ思い出に残ってるということですね。
その直後の11月14日には新日本に大事件が待っていました。(アントニオ)猪木さんが保持していた株式を(ゲーム会社の)ユークスさんが取得して、新たにオーナー会社となったんです。当時の俺は経営の部分を全然理解していなくて、まさか身売りという形になるとは夢にも思ってなかったですね。
当時不良債権的な状況だった新日本プロレスをユークスの谷口(行規)社長が救ってくれたというのは、後々になって感謝の気持ちがどんどん大きくなりました。ユークス体制は12年まで続くんですが、今振り返ると、まさに俺の時代でした。00年代後半になって多くの選手が頭角を現し、新日本がこれからグッと伸びるなという状況になるまで支えてくれたユークスさんには本当に感謝しかありません。
とはいえ、当時の新日本プロレスはネガティブな話題が続いていて、年が明けた06年には多くの選手たちが去っていってしまいました――。













