新日本プロレスの2004年11月13日大阪ドーム大会はアントニオ猪木さんの強権発動によるカードが緊急変更され、天山(広吉)さんと組んでハッスルの小川(直也)選手、川田(利明)さんとタッグマッチで戦いました。試合は小川選手にフォール負けを喫したんですが、当時ハッスルに対してはかなり否定的な思いを抱いていました。

 プロレスに対して真摯に向き合うことが自分のモットーなので、プロレスというものを使って面白がられるのはものすごく嫌でしたね。この試合後には、ハッスルから声がかかったこともあったんです。当時からすると破格のギャランティーでしたが、すぐに断りました。やっぱり新日本の戦いが好きだったので。

 でも、会社の方は引き抜かれる危機感があったみたいです。その年の契約更改で印鑑を持ってくるのを忘れてしまったら「契約しないつもりなんじゃないか」と疑われたのか、菅林(直樹=現会長)さんが「一緒に取りに行こう」ってタクシーに乗って家まで来てくれて。「絶対に逃がさないぞ」って、大事に思ってくれているのが伝わってうれしかったですね。

 あと小川選手に対しても、かなり辛らつなコメントをしていたのを覚えています。時代もあると思うんですけど、ネームバリューも体のサイズもあるし、もっと違う形で小川選手がプロレスに向き合ってくれていたら歴史は変わっていたと思うんですよ。

 1999年1月4日東京ドーム大会での試合で同郷の先輩である橋本(真也)さんの人生の歯車は狂ってしまったと思っているので。あの一試合がなかったら橋本さんは新日本を去らなかったかもしれないし、若くてとがっていた俺には、小川選手を許せない思いがあったんですね。

「1.4事変」橋本真也(下)を攻める小川直也(上、99年1月)
「1.4事変」橋本真也(下)を攻める小川直也(上、99年1月)

 当時の新日本は「外敵天国」と呼ばれる状況でした。そんな中で迎えた04年12月11日大阪大会で俺は中邑(真輔)と組んで、佐々木健介、鈴木みのる組とのIWGPタッグ新王者決定戦に臨みました。最後は俺が鈴木さんからドラゴンスープレックスで3カウントを取ってベルトを奪取したんですが、今となっては中邑がいなかったら試合が成立しなかっただろうなと思います。シングルプレーヤー気質でバランスを考えずに動いてしまうのを中邑がうまく操縦していたイメージですね。

 すでに中邑はIWGPヘビーのベルトを巻いていたんですけど、将来トップになるんじゃないかという期待感のある若い選手がタッグを組む構図は見やすいと思っていました。その2人が将来的に戦うというのもよくあることですし。そしてIWGPタッグのベルトを取った俺と中邑の初対決が、05年1月4日東京ドームでついに実現することになりました。