【プロレス蔵出し写真館】今から44年前、1981年(昭和56年)9月23日、〝伝説〟となった東京・田園コロシアム大会を取材した。
ド迫力の試合を繰り広げたアンドレ・ザ・ジャイアントとスタン・ハンセン戦の余韻がまだ冷めない中、元国際プロレスのラッシャー木村とアニマル浜口がリングに上がる。
翌月8日の蔵前大会で新日本プロレスVS国際プロレスのシングルマッチでの対抗戦が決まっていた。木村の相手はアントニオ猪木、浜口は剛竜馬、寺西勇が藤波辰巳(現・辰爾)。
テレビ朝日の保坂正紀アナが木村にマイクを向けた。「木村さん、いよいよ実現しますが、今のお気持ちは?」
「こんばんは」。木村の第一声に客席から失笑が漏れた。
「あのですね、10月8日の試合は、わたくしたちは国際プロレスの名誉にかけても、必ず勝ってみせます。またですね、この試合のために今、秩父で合宿を張って死に物狂いでトレーニングをやっておりますので必ず勝ちます」と木村が続けた。
元国際軍団の殴り込みというスタンスにもかかわらず、落ち着いた声のトーン。猪木は苦々しい表情で木村の話を聞いていた(写真)。
浜口は会場の空気を変えようと、マイクを奪い取り「10月8日は我々は絶対勝ちますよ!」とがなり立てた。
いまだに語り草の〝ラッシャー木村こんばんは事件〟。
木村のマイクパフォーマンスは、後に移籍した全日本プロレスで人気を呼び浸透するが、このときから木村は〝素〟でマイクアピールをしていた。
若手のひとりは「(会場の)入り口から木村さんと浜口さんを控室に案内しました。それから、試合を見るために、控室から顔を出せるスペースにイスを用意した。通路の上のところ。イスを置いてあげたら木村さんと浜口さんが『どうもすいません』って。俺ら若手なんで『どうも』だけでいいのに。丁寧な人たちなんだなって恐縮した覚えがあります」と回想する。
国際が崩壊して、実戦練習するリングがない3人に新日本の道場を提供したのは〝現場責任者〟の坂口征二。新日本の合同練習が終わった後、3時、4時過ぎから道場を使えるよう配慮した。
「等々力の駅に若手が交代で(バスで)迎えに行き、練習が終ったらまた駅まで送りました。そのときも木村さんは『どうもいつもすいません』ってお礼を言ってくれた。ドアを閉めてるから練習風景はのぞけなかった。(練習が終わって)シャワー浴びて着替えて帰ろうとするから『ちゃんこ食べて行ってください。用意できてますから』と言ったんですが、いつも『結構です』って絶対食べなかった」(前出の若手)
さて、決戦当日、対抗戦は異常な盛り上がりを見せた。木村が猪木を流血させると館内はヒートアップ。エキサイトした猪木は腕ひしぎ逆十字を決めて、木村がロープブレークしても放さず反則負けを喫した。
館内は大ブーイング。抗争はエスカレートしていくこととなる。
ところで、猪木は74年(昭和49年)3月19日、蔵前で〝昭和の巌流島〟とうたわれた対ストロング小林戦に勝利。その年の10月10日には同じく蔵前大会で〝韓国の虎〟大木金太郎をバックドロップで沈め、〝大物日本人〟対決を制した。
猪木は「日本選手権」開催を提唱して、これに挑戦ののろしを上げたのが国際プロレスだった。年が明けた75年、1月7日にグレート草津、マイティ井上とともに会見した木村が「われわれも日本選手権をやる用意がある」と爆弾発言した。
しかし、新日本から反応はなく、これに業を煮やした木村は6月6日、高田馬場の「ビッグ・ボックス」で会見し、「正式に対決を実現するために内容証明付きの挑戦状を送った」と発表する。
挑戦状の内容は〝私、ラッシャー木村は、新日本プロレス、アントニオ猪木選手に対して、実力日本一決定戦の実現を強く要望するものであります。日本選手権戦実現の困難さは私とて解らぬものではありませんが、このまま何らの進展も見ず、貴殿の提唱も時と共に自然消滅の形で忘られてしまう事を考察しますと誠に残念であります。
私は現在、IWA世界選手権を保持し、ひそかに実力日本一をもって任しております。ストロング・小林君とは違いあくまでも国際プロレスの代表選手として貴殿との対決を求める者であることを明確にし、貴殿の可及的速やかなる御返答を重ねて期待する次第であります。(抜粋)〟
猪木はその日の夜、巡業先の北海道・旭川で「相手が木村じゃ…ねえ。正直、木村に勝ったからといって自慢もできない。五分五分の立場でやろうなどとはおこがましい」と東京プロレス時代、エースの猪木に対し、かたや新弟子だった木村。猪木は辛らつに言い放った。
帰京した猪木は13日、南青山の事務所で会見し「自分の口から実力日本一なんて言ったことはない。木村は自分の立場と実力が分かっていない。『己を知れ』」と正式に回答した。プロボクシングの世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリに挑戦を表明して世間の注目を集めていた猪木にとって、木村は眼中になかったのだ。
そんなやりとりを経て、6年たってようやく決まった対決だった。感慨深い思いでカメラを向けた(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













