【プロレス蔵出し写真館】1982年(昭和57年)10月22日、新日本プロレスの広島県立体育館で、後に〝名勝負数え唄〟と呼ばれる藤波辰巳(現・辰爾)と長州力の抗争がスタートした。
同月8日の後楽園大会で勃発した長州の下克上「かませ犬発言」からの一騎打ちは大荒れの試合となった。長州はイスを持ち出し藤波の脳天に振り下ろす。もつれたままフェンスの外に飛び出し、場外からリングに戻ってからも殴り合いを展開し、収拾がつかずノーコンテストに終わった。
さてこの日、この試合の前にファンを驚かせる出来事が発生していた。レス・ソントンとシングルで対戦した初代タイガーマスク(佐山サトル)を、乱入した小林邦昭が襲撃した(写真)。
26日の大阪大会でタイガーのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦が決まっていた小林が、〝待てない〟とばかり先制攻撃を仕掛けたのだった。
小林は80年にメキシコに海外武者修行に出発し、82年に米国・ロサンゼルス地区に渡り、キッド・コビーのリングネームでNWAアメリカス・ヘビー級王座を奪取した。ロサンゼルスにはラッシャー木村が「ミスター・トヨ」、剛竜馬が「ミスター・ゴー」と名乗りアメリカス・タッグ王座を保持していた。余談だが、当時、低迷していたロスマーケットを救済するため、新日プロが買収という話もあったが、横やりが入り、この話は立ち消えとなっている。
大阪の試合でタイガーのマスクを引き裂いて強烈なインパクトを残し、のちに〝虎ハンター〟と呼ばれることになる小林とタイガーの抗争は、広島から始まった。
小林はセルフプロモーションに長けていたが、タイガーを襲ったのが会社の指示だったのか独断だったのかは不透明だ。
当時、長州に続く内乱にアントニオ猪木は「大いに結構。今の新日プロは戦国時代。オレは下克上を奨励する。オレの首を狩ろうという奴も、どんどん出てきてほしい」と断言していた。
事情通は、「猪木さんが小林に『お前、(日本に帰ってきて)何も印象残せなかったら、もう終わっちまうぞ』って言ったと聞いたことがある。真偽は不明ですが。いずれにしても、あの2人(小林とタイガー)は、昔(若手時代)やってて手が合ってた。あうんの呼吸っていうか。次、何がくる、何をやろうってお互いが読めてる。だからすごい。ツーカーでした」と振り返る。
9月9日は小林さんの命日だ(昨年、膵臓がんで死去。享年68)。
小林さんの後輩で信頼の厚かった新倉史祐が忘れられない思い出を明かす。
「まだデビューしてないオレと高田(伸彦=後の延彦)を映画に誘ってくれた。『話題になってるから行こう』って。でも、嫌な予感はしてた。猛暑のときだったから。練習終ってからだったし、オレも高田も絶対映画なんか見てらんない。寝ちゃうだろうなって(笑い)。高田なんか最初からイビキかいて、オレもつられてすぐ寝て、『オイオイ』って叩かれて起きたら(館内が)明るくて…。(映画ですか?)『がんばれ!! タブチくん!! 第2弾 激闘ペナントレース』です。小林さんがメキシコへ出発する前でしたね」と語る。
「去年、小林さんが亡くなる直前、オレが見舞いに行った2日前に西村修君が見舞いに行ってた。『西村、オレんとこへ来てくれたよ。あいつも病気で大変だろうに』って感謝してましたね。そんな西村君も逝っちゃったよね」(新倉)
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