【プロレス蔵出し写真館】小橋建太が9月12日、後楽園ホールで行われたテレビ朝日の〝プロレスバラエティー〟「新日ちゃんぴおん!」プロデュース興行でスペシャル解説を務めた。
棚橋弘至が金丸義信を羽交い締めにして放送席の小橋の前に連れて行くと、ヘッドホンを外して〝お約束〟のチョップ3連発。さらにEVILにも3連発見舞った。
さて、小橋のプロデュースする「Fortune Dream」では毎回ゲストを迎え、トークバトルを行っていて、2023年6月14日には〝不沈艦〟スタン・ハンセンが登場。引退して好々爺然としたハンセンとは、現役時代に激闘を繰り広げたのは周知の事実。
トークショーでハンセンは「ファイティングスピリットがすごかったからこそ、あそこまでやらなきゃいけなかった。あのときは本気で潰そうと思っていた」と語ると、小橋はラリアートをフィニッシュ技にする心構えを〝元祖〟からアドバイスされたことを明かした。
この日のトークショーでは触れられなかったが、今から30年前、1995年(平成7年)8月23日の秋田・大館大会で、小橋とハンセンの〝大げんか〟が勃発していた。
小橋は井上雅央、ハンセンはリチャード・スリンガーをパートナーにタッグマッチで対戦。
小橋はコーナーに掛けられていたハンセンのブルロープを奪うとハンセンを殴打。これに激怒したハンセンは、小橋を本部席の机に叩きつけブルロープを奪って殴りつけた。さらに片手でイスをつかみ、無造作に投げつけるように引っ叩いた。
イスの金属部分が引っ掛かったのか、小橋の左ヒジ付近の肉が大きくえぐれ、血が噴き出した。ハンセンは容赦せず、流血した左腕にブルロープでフルスイングする非道さ。
スリンガーが井上雅をフォールして試合が終わったが、険しい表情の小橋はイスを持ってハンセンの控室に殴り込んだ(写真)。ボビー・ダンカンJrを始め、外国人レスラーがあわてて制止する。
次の試合に出場する三沢光晴も、テーマソングが鳴っているにもかかわらず出場を遅らせ、止めに入るほどだった。
救急車で市内の病院に直行した小橋は、中11針、外11針の合計22針の縫合手術を受けた。怒りが収まらないのか「今は答えられる状態じゃない」と取材に答えた。
〝鉄人〟小橋は、翌日の青森・弘前大会以降はサポーターをつけて試合に強行出場した。
小橋は後に、東スポの連載で「頭の中でブチッと音がした。凶器でやられたんだから一発殴り返さなきゃという気持ちだった。気が付けばイスを持ってハンセンの控室に殴り込んでいた」と明かした。
和田京平レフェリーは「小橋の左腕がザックリ切れて骨まで見えているのに、ブルロープで殴り続けてお互いのスイッチが入っちゃって。あれはすごかった」と振り返り、「ハンセンはまだそのころ、小橋を認めてなかったからね。でも、それから小橋って伸びた。ハンセンは小橋になぜかメチャクチャやってたね。三沢にはやらないけど、小橋なら許される的なものがあった。小橋は上りつめようという気持ちが強くて、ハンセンもわかってたから叩き潰してやるって…」と振り返った。
「オレもレフェリーやってて、そうそうないよ控室へ殴り込みって。昔、川田(利明)が(クラッシャー)ブラックウェルをローキックで蹴っ飛ばした時、『ツーマッチだ』って、あのおとなしいブラックウェルが控室へ乗り込んで来たもんね。(ハンセンは)度を越してた。だからムカついたんだろうね、小橋も。そうじゃなかったら控室とか行かないよね」(和田レフェリー)
ハンセンで知られるのは88年(昭和63年)3月5日、秋田大会での一件だろう。サンドイッチ延髄を食らって失神し、覚醒してから天龍源一郎をボコボコにして控室への殴り込みを企てた。和田レフェリーが天龍とマスコミに会場から避難するよう警告して、襲撃は未遂に終わった。
4日後に横浜で行われた天龍VSハンセンのWタイトル戦では、ハンセンのカウベルでの一撃にキレた天龍がハンセンの控室に殴り込んだ。
後に天龍は、前田日明との対談で、「このときは馬場さんがハンセンの怒りを鎮めた。外国人には〝テークケア〟という言葉は大事にしていたからね」と、顛末を明かしていた。
ところで、小橋とハンセンは翌月の9月5日、鳥取大会で大館以来、タッグマッチで直接対決した。展開は予測不能だったが、意外にも小橋はクリーンファイトに徹した。
引退後も笑顔で絡めるのは遺恨を引きずらなかったからだろう(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る














