【プロレス蔵出し写真館】今から33年前の1990年(平成2年)6月12日、新日本プロレスの福岡国際センターで〝皇帝戦士〟ビッグバン・ベイダーに〝不沈艦〟スタン・ハンセンが挑戦する〝最強外国人決定戦〟第2ラウンド、IWGPヘビー級選手権が行われた。

 4日前の6月8日、ハンセンは全日本プロレスの日本武道館大会でテリー・ゴディを破り三冠ヘビー級王座を奪取し、文字通り全日のトップレスラーとなっていた。

ベイダーの右目は無残に塞がった(90年2月、東京ドーム)
ベイダーの右目は無残に塞がった(90年2月、東京ドーム)

 この年の2月10日、新日・東京ドームで行われた日本での初対決で、ド迫力の殴り合いを展開。結果は15分47秒、両者リングアウトに終わったが、ハンセンはパンチ攻撃でベイダーの右目を破壊した。ベイダーが自らマスクを脱ぐと、まぶたが青白く腫れ上がり、目は塞がっていた。

 眼窩底骨折だった。

 ベイダーは自伝本で、「スタンがわざとサミング気味のパンチをしてきた」と断定。眼球を一時摘出して眼底骨折部分を治療してから、また戻すという大手術を受けたという。

 さて、2度目の対決も前回同様、激しい乱打戦になった。 

 ハンセンとベイダーはパンチ、ヘッドバット合戦。そしてラリアートの打ち合い。ハンセンがバックドロップを見せれば、ベイダーはビッグバン・クラッシュで応戦。ハンセンはキックで反撃し、場外のイス攻撃でベイダーが流血。リングに戻ってハンセンがブレーンバスターでマットに叩きつければ、ベイダーはアバランシュホールドで反撃。

ベイダー(上)とハンセンの乱打戦(90年6月、福岡)
ベイダー(上)とハンセンの乱打戦(90年6月、福岡)

 さらに回転エビ固めを決め、ハンセンをあわてさせた。張り手、パンチの猛ラッシュから鉄柱攻撃。ハンセンも流血だ。そして、ハンセンを鉄柱を背に立たせてベイダーはアメフト流のタックル。これをカウンターのラリアートで迎撃するハンセン。最後はハンセンのブルロープで首の絞め合いとなり、22分11秒、両者反則の裁定が下った。

 館内からブーイングは起こらなかった。決着はつかなかったが、2人の肉弾戦に観客は酔いしれた。

 激闘から一夜明けた13日、大分市内のホテルで昼食を共にする2人の姿があった。

 そして、ニホンザルを餌付けしている高崎山自然動物園へ猿見物に出かけた(写真)。ハンセンは来日中の息子を連れ、シリーズに参戦していたザ・ソウルテイカー、ヒロ斎藤、タイガー服部レフェリーも同行していた。

 前日の死闘がウソのように楽し気な雰囲気だ。ハンセンは「昨日、戦ったが久しぶりにそう快な気分になった。全力を尽くして戦い合った者同士だけがわかる気持ちをオレもベイダーも持った」と話せば、一方のベイダーも、「タフだし強い。ダテに日本でNo.1外国人に君臨してたわけじゃないってことだ。強い男であることは文句なしに認めるし、友人であることも認める」と称えた。

 このシリーズは思わぬところで、共闘も生まれた。18日の熊本大会でベイダーがアニマル浜口、ハンセンは長州力と2度目のタッグを結成し、タッグ対戦。長州のラリアートがハンセンに誤爆し、仲間割れ。ハンセンは試合を放棄しベイダー、浜口と3人で長州を蹴りまくった。

 全日マットではタッグを結成し、世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場したベイダーとハンセン。

 ハンセンは16年にWWEの殿堂入りし、インダクターをベイダーが務めた。日米を通じて死闘を繰り返し、友情が生まれていたのは、事実だった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る