【プロレス蔵出し写真館】待ち構える大勢のファンを、ブルロープで追い払う〝不沈艦〟スタン・ハンセン。ファンもそれを楽しんでいるかのような、見慣れたいつもの風景だ。
これは今から29年前の1993年(平成5年)3月31日、福井市体育館でのひとコマ。この日、ハンセンは全日本プロレスの春の祭典「チャンピオン・カーニバル」公式リーグ戦で、デイビーボーイ・スミスにウエスタンラリアートをさく裂させ快勝した。
さて、昨年12月いっぱいで全日本を退団し、年が明けた元日のプロレスリング・ノア日本武道館大会に電撃登場したジェイク・リーがちょっとした話題になっている。しかし、昭和の時代、ハンセンの電撃移籍はプロレス界を揺るがす大事件だった。
新日本プロレスのトップ外国人レスラーだったハンセンは、81年(昭和56年)12月10日、「MS・Gタッグリーグ戦」が終了すると、2日後の12日に突如、全日の横須賀市総合体育館に姿を見せた。ハンセンは盟友のフランク(ブルーザー・ブロディ)に会いに来ただけと語ったが、マスコミは騒然となった。
翌13日の蔵前国技館で行われる「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦にも来場することが予想され、当然、乱入するのは明白で、「ラリアートを撮り逃すなよ!」デスクの檄が飛んだ。
ハンセンは私服姿でザ・ファンクス(ドリー、テリー)と対戦するブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドに就き、終盤に場外でテリーにラリアートを見舞ってブロディ組の優勝をアシスト。その後、怒って飛び込んできたジャイアント馬場、ジャンボ鶴田と乱闘を展開。テレビが全国ネットで放送され、知名度が高かったハンセンのド派手な全日への乱入は、視聴者にも衝撃を与えた。
プロレスライターの小佐野景浩氏は「(81年の)5月に、新日にアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜かれた報復として馬場さんがハンセンを引き抜くため、テリー・ファンクの仲介でダラス(米テキサス州)でハンセンと会ったのは6月15日。そこで12月13日の蔵前での登場が決まったと、同席していた日本テレビ・プロデューサーの原章氏が後にインタビューで証言しました。新日本の田園コロシアムでアンドレ・ザ・ジャイアントとド迫力の試合をやる前に、全日への参戦が決定していたことは驚きですよね」と語った。
また、「当時のプロレス専門誌は月刊でしたが、ハンセンの乱入直後に発売された『別冊ゴング』の表紙が超獣コンビのツーショット写真だったことで、ライバル誌『月刊プロレス』から、『ゴング』は移籍話を知っていた。引き抜きに関与していると疑いがかけられ、坂口(征二)さんから事情聴取されました。名古屋(11月30日=新日、全日の両タッグリーグ戦に参加していた外国人レスラーがこの日、偶然同じ宿舎だった)で撮影されたと誤解したんですよ。アメリカで撮影された写真を温存し、出すタイミングを計っていただけなんですけどね」とゴングの編集スタッフだったころの記憶をたぐってくれた。
ハンセンは、馬場が第一線を退いた後は天龍源一郎と死闘を演じ、三沢光晴、川田利明、小橋健太(後に建太)ら超世代軍の高い壁となり全日を支えた。レスラー人生を、全日で終えたハンセンの移籍は大正解だったといえるだろう(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













