【プロレス蔵出し写真館】プロレス界を引退した長州力が出演する、日本テレビ系「しゃべくり007」が28日に放送される。武藤敬司と再会SPと題しクイズに挑戦する。現在は熱海に居を構え、自身のユーチューブチャンネルではお孫さんや娘婿との日常を配信していて、好々爺にイメチェンを果たしている。

 現役時代を取材した身からすると、目を疑う長州の変わりよう。中堅時代は別にして、全盛期の長州は全身から常にピリピリしたムードを放っていた。

 あれは長州が全日本プロレスに参戦していた今から36年前の1986年(昭和61年)のこと。12月12日に日本武道館で「世界最強タッグ決定リーグ戦」の最終戦が行われた。

 長州は谷津嘉章とのコンビで、勝ち点9でファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)と並んでいた。得点トップは勝ち点10のジャンボ鶴田&天龍源一郎組とスタン・ハンセン&テッド・デビアス組。4チームは最後の公式リーグ戦を残していて、先に得点トップ同士が対戦した。勝てば2点獲得し優勝が決まるのだが、両者リングアウトで勝ち点10のまま終了。そのあとに行われる長州組VSファンクスの一戦で勝った方が勝ち点11で優勝という状況になった。

 試合は長州組のペースで進み、谷津にスピニングトーホールドを決めるドリーに長州がリキラリアート。返す刀でテリーにもラリアートを見舞ったのだが、2人はもつれるように場外へ。リングに戻ろうとする長州の足をテリーが必死につかみ(写真)、この試合も両者リングアウトの裁定。両チームは勝ち点9のまま優勝争いから脱落した。

 さっさと引き揚げた長州を追いかけ、控室に続く通路でカメラを構えると、長州は怒髪天を突くような怒りの形相で、「撮ったら食らわすぞコラァ!」。

 シャッターを切れず、ぼうぜんとその場で固まってしまった記憶が脳裏に残っている。

 後に明らかになったが、ちょうどこのころジャパンプロレスは一蓮托生ではなくなっていた。試合以外の事情で、社長だった長州のイライラが募っていたようだ。結局、長州は翌87年に新日本プロレスにUターンした。

 ところで、84年に長州らの参戦が決まると、全日本のリングはロープの高さが調節された。「(ジャイアント)馬場さんに言われて、トップロープを10センチ弱下げたんですよ。長州が新日本に比べマットが柔らかいって? 柔らかいほうがスタミナが必要でしょ。ジャパンの選手は途中から息が上がってたよね」。リングスタッフを束ねていた和田京平レフェリーは、当時を述懐する。

初の全日プロ参戦でリングをチェックする長州とアニマル浜口(84年12月、横浜)
初の全日プロ参戦でリングをチェックする長州とアニマル浜口(84年12月、横浜)

 それでも、新日本のファイトスタイルをそのまま持ち込んだ長州らの試合ぶりは、全日マットでは異色で新鮮に映り〝全日本とのイデオロギー闘争〟ともいわれた。わずか2年数か月の全日マット参戦だったが、去った後に〝天龍革命〟が起こるなど、全日本に多大な影響をもたらした。 

 さて、長州のユーチューブは多くのレスラーのそれとは異なり、プロレスの話を語ることはほとんどない。以前、蝶野正洋との対談で、長州は「ブックってなんだ?」と蝶野に尋ねた。そして、「俺たちは一生懸命やってきた。それをなんだブックって…」。そう、とつとつと語りかけていた。

〝余計な詮索は無用〟。そんなメッセージだろうか。(敬称略)。

【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る