【デスマッチ女王 工藤めぐみ伝説 邪道姫40年目の激白(7)】全日本女子プロレスの厳しい縦社会が、自分には消化し切れなくなっていきました。先輩との関わり方、礼儀作法、練習と16、17歳で初めてぶつかることが多く、体調を崩しました。胸骨を骨折しても新人だから「折れているので休ませてください」と言えません。折れたまま試合に出ていると、そこをかばってしまって、技をきちんと決められなくなります。私は骨折したと伝えることは「言ってはいけないもの」と思っていました。

 病院の先生から「このまま続けて変な折れ方をしたら(内臓などに)刺さる可能性がある」と告げられ、自己流で保護パッドのようなものを作りました。段ボールにガーゼをぐるぐるに巻き、自分の胸骨に当てて少しでも衝撃を和らげようとしましたが、やはりダメで…。そのうち呼吸をするのも苦しく、内面的にも調子が悪くなる悪循環。徐々に「辞めたい」としか思わなくなりました。

「ケガを治す」という前向きな気持ちはなく「ただここから逃げ出したい」気持ちでいっぱいになりました。それで「辞める」と決断。会社に伝えたのですが、もちろん止める様子は全くない。ジャガーさんからは「練習を見ていても元気ないし、そういう感じだろうと思っていた。頑張ってほしかったけど、自分で決めたことだから」と親身になってお話ししていただき、1988年4月、私は全日本女子プロレスを退団しました。

道場で指導してくれたジャガー(奥)にも引退を報告
道場で指導してくれたジャガー(奥)にも引退を報告

 プロレスを辞めたものの、何もすることがありません。アルバイトをしても、長くは続きませんでした。ある日、道を歩いて、たまたま掲示板を目にすると「保育助手募集」とありました。子供が大好きだったので保育士に興味はありましたが、資格がなかったので無理だと思っていました。でも掲示板には「助手」なら資格なしでもできると。すぐに面接を受け、保育士助手としての生活が始まりました。

 区と6か月ごとに契約を更新し、品川区と大田区で勤めました。この期間は本当に、子供たちに救われましたね。それまではプロレスを辞めた後ろめたさと、やりたい仕事が見つからないで、プータロー状態でした。何の目標もなくだらだら過ごしていたし「これじゃいけない」と焦っても動けない。

 それが子供たちと一緒に過ごすことが楽しくて、楽しくて。嫌なことや迷いが一切なく、子供と過ごすことに集中できました。毎日ずっと保育園にいたいと思うようになり、保育士の資格を取るという新たな目標ができました。「私は何をしても長続きしないダメな自分だな」と思っていましたが、気持ちも晴れやかになり、友達と食事にも行くようになりました。気持ちに余裕が出てくると、自然に「プロレスが見たい」と思うようになりました。そして…。

 

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