全日本プロレス50周年記念大会となった18日の日本武道館大会では、エースの宮原健斗が3冠ヘビー級王者の諏訪魔を撃破して、6度目の戴冠を果たした。特別立会人として約3年ぶりに来日したスタン・ハンセンは「初めて見たが心を動かされた」と宮原を絶賛した。

 そのハンセンの全日電撃移籍は、プロレス史でも最大級の衝撃とされている(初来日は1975年9月)。81年12月13日蔵前国技館の「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦で、盟友ブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組のセコンドとして私服姿で突然乱入。ザ・ファンクス(テリー、ドリー)を襲撃して、テリーを場外ラリアートで葬って戦闘不能に追い込み、ブロディ組に優勝をもたらした。

 アントニオ猪木最大のライバルだったハンセンは3日前に新日本プロレス「MS・Gタッグリーグ戦」を終えたばかり。乱入はほぼ誰も知らず、選手も観衆も大混乱となった。乱入を受けたジャイアント馬場は激怒してハンセンと大乱闘。脳天チョップで流血に追い込んだ。馬場は「他人の家に土足で入ってくるようなマネをしてくれた。絶対に許せない。一騎打ちで戦う」と声を荒らげた。これで不沈艦の全日本参戦が決定した。

 ハンセン電撃乱入の背景には、新日本とのいわゆる「引き抜き合戦」があった。同年5月にアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜かれた全日本側が反撃を仕掛けたとされているが、超ド級のインパクトがあった。これを機に両団体は話し合いの場を持ち、引き抜き合戦は休戦状態に入った。

 ハンセンはさっそく翌82年1月シリーズ途中から全日本に参戦。1月15日木更津大会で阿修羅原を相手に移籍初戦に臨んだ。観衆は実に超満員6700人。和田京平名誉レフェリーは「それまでは客足が落ちていたんだけど、木更津の小さな会場がパンパンになった。それからは全国どこへ行っても超満員。ハンセン効果は絶大だったね」と述懐している。そして試合は想像以上に壮絶なものだった。

「ゴングが鳴ると、一気に攻め込んだのは原。しかしハンセンはリストロックを力で返し、コーナーに叩きつける。原のパワーもハンセンの前には非力に見える。ダブルチョップを叩き込むが、ハンセンはいささかもたじろがない。逆に豪快なジャンピングニーパットからハイアングルのボディースラム、そしてエルボードロップにつないだ。原の反撃がハンセンの怒りに火をつけた格好だ。ハンセンが原をロープに振ると会場内は異様なざわめき。ハンセンの剛腕がうなりを上げて原の首に叩き込まれる。必殺のラリアート! 原はもんどり打って場外に落ち、ピクリとも動かない。しかも試合後は担架で病院に直行する惨劇。わずか2分25秒。“ハンセン台風”は初戦にして犠牲者を生んだ」(抜粋)

 不沈艦はその後も嵐のような大暴れを続け、タッグ戦ながら連日、大熊元司、石川敬士、天龍源一郎、プリンス・トンガ、グレート小鹿らをラリアートで葬り続け、1月22日長崎の6人タッグでは、試合後に馬場までラリアートでKOした。とにかく圧巻の強さで、全勝街道をばく進。最終戦2月4日東京体育館ではPWFヘビー級王者の馬場と初のシングル戦が決まっていたが「馬場は殺される」との論調が圧倒的だった。

 しかし本番ではもはや全盛期を過ぎたとされていた馬場が奮起。腕殺しに徹して32文ロケット砲まで披露し、屈指の名勝負となり「馬場復活」を満天下に証明した。結果は両者反則に終わるも「ハンセン効果」は集客力だけでなく馬場の復活ももたらし、この年の東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」年間最高試合賞を獲得した。

 ハンセンは翌年9月8日千葉で初めて馬場に勝利してPWF王座を奪取。その後はブロディとの超獣コンビ、天龍やジャンボ鶴田、四天王らと激闘を展開した。不沈艦は2001年1月28日東京ドームの馬場三回忌追悼興行で引退セレモニーを行い、82年の移籍以来、王道マットでプロレス人生をまっとうした。今、思えば冷戦時代の引き抜き合戦は、ハンセンという“財産”を得た全日本の“圧勝”だったかもしれない。 (敬称略)