約25年にわたり日本マットで活躍した〝不沈艦〟ことスタン・ハンセン氏(73)が3年ぶりに来日し、オールドファンを沸かせている。18日の全日本プロレス「50周年記念大会」(東京・日本武道館)では諏訪魔 vs 宮原健斗の3冠ヘビー級選手権で特別立会人を務め、メモリアル大会に花を添えた。久々に見た古巣はどう映ったのか? 単独インタビューでは現役時代の思い出を振り返るとともに、「願わくばあと50年頑張ってほしい」とエールを送る王道マット再興へ提言を放った。
――メモリアル大会で特別立会人を務めた
ハンセン氏(以下ハンセン) 3年ぶりに来日して、思い出のある日本武道館で素晴らしい試合に立ち会えてうれしかったよ。ファンの皆さんが私のことや、決めポーズを覚えていてくれたのは光栄だね。ロングホーンのポーズは、自分のトレードマークのようなものだから。
――宮原が3冠王者となった
ハンセン 初めて生で試合を見たけど、ポテンシャルがある選手だと感じたし、心を動かされた。今後は小橋建太や、川田利明といった四天王や、さまざまな選手のいいところを吸収して、自分のスタイルを確立すればもっと素晴らしい選手になるんじゃないか。もちろん、相手の諏訪魔もいい選手だったよ。
――試合中は諏訪魔から挑発されたが
ハンセン まあ、何も起きなかったけどね(笑い)。売られたケンカは買わないといけない場面もあるので。諏訪魔が「地獄に落ちろ」と言っていた? 地獄には落ちなかったな(笑い)。(セコンドのTARUが)メガネをはずした時に(カラーコンタクトを入れて)白い目をしていて。それは見たことがなかったのでビックリしたよ。
――スムーズにリングに上がっていたが、コンディションも良さそうだ
ハンセン 基本的に毎日、体を動かしているからね。有酸素運動や、たまにウエートをやっている。毎日45分間は、エアロバイクをこいでいるよ。外に出ると、人が多くて事故になってしまったら怖いので。それと、3人の女の子の孫を学校へ迎えに行ったり、一緒に遊んだりしている。
――現役時代の思い出を挙げると
ハンセン ジャンボ(鶴田さん)とは同じころ(1973年)にデビューしたから、彼がアメリカにいた時に、一緒に筋トレをした。体つきはあまり強そうには見えなかったけど、(72年のミュンヘン)五輪に出た直後だったので、とても腕力が強かったのが印象的だった。私より力があったので、とてもビックリしたね。同じメニューをこなしていたので大変だったよ。
――現在の新日本プロレスと全日本は差がある
ハンセン 新日本と全日本を比べてどうかっていうよりも、この2つのメジャー団体がある状態というのが業界的に一番健全だったと思う。団体や会社が枝分けしたり、分裂したりして多団体時代に突入してしまったことの影響があったのかなとは思う。
――経験上、そう感じたのか
ハンセン いい選手が引き続きいい試合をしてくれたら、サイクルみたいなものだと思っている。アメリカのプロレス界もそうだった。50年代に落ちて、70年代にはまたブレークしてみたいな。だから、今は新日本が面白い試合をしてて新日本のほうが元気みたいになってるけど、その逆の時期も必ず来ると思う。
――全日本への提言は
ハンセン インパクトが残せるような試合をすることが大事だ。ただうまいだけでも、強いだけでもダメなんだよ。全部ひっくるめてトータル的にできてこそだと思う。時と場合によっては、少なくやるほうがインパクトがあることもある。何度も何度も同じことをやるのではなくて、決めるときは一発の技で決めちゃえばいいんだ。私もウエスタンラリアートは大事にしていたから。あの技を出す時は、「絶対に試合を決めてやるぞ!」という気持ちで繰り出していた。
――選手に向けてのアドバイスを
ハンセン 自分のプロレススタイルを大事にすることを伝えたい。アメリカンスタイルとか、よそのスタイルに影響されず、歴史と伝統のある日本のプロレスのスタイルを守り続けることが大切だ。アントニオ猪木さん、ジャイアント馬場さんや自分のやってきたジャパニーズスタイルが世界一だからね。ウィー!
☆スタン・ハンセン 1949年8月29日生まれ。テキサス州ノックスシティー出身。NFLで活躍後、73年1月にプロレスデビュー。75年9月、全日本プロレスに初来日。76年のWWWF(現WWE)でブルーノ・サンマルチノとの試合で名を上げ、77年1月から新日本プロレスに参戦し、猪木やアンドレ・ザ・ジャイアントらとプロレス史に残る名勝負を展開。81年12月の全日移籍後はトップ外国人選手として君臨し馬場、鶴田、天龍源一郎、三沢光晴、小橋建太ら日本マット界のエースたちと激闘を繰り広げ、2001年1月に引退。16年にはWWE殿堂入り。必殺技はウエスタンラリアート。現役時は195センチ、140キロ。












