新日本プロレス、真夏の祭典「G1クライマックス」で2連覇を果たしたオカダ・カズチカから、Aブロック公式戦で勝利を奪う大金星を挙げたのが、初参戦のジョナ改めJONAH(183センチ、160キロ)だ。憧れの選手に往年の怪物レスラー“入れ墨獣”ことバンバン・ビガロ(195センチ、165キロ)の名を挙げており、確かに巨体ながらも俊敏に動くスタイルは、往年のビガロをほうふつとさせた。今後の成長が期待される大型外国人選手だ。
そのビガロの初来日は衝撃的だった。新日本プロレスに初来日したのが1987年1月シリーズ。85年12月に米国でデビューし、テネシー州メンフィスのCWA、テキサス州ダラスのWCCWでキャリアを積み“鉄の爪”ことフリッツ・フォン・エリックからアントニオ猪木への刺客として日本へ送り込まれた。
当時は「クラッシャー・バンバン・ビガロ」のリングネームで、頭にまで入れ墨を施した風貌は衝撃的だった。シリーズ途中の1月30日に来日。2月両国国技館で猪木との一騎打ちが決まっていたのだが、デビュー1年強で猪木と一騎打ちを行うこと自体が大抜てきだった。しかも来日前の1月19日にはシリーズが開幕しているにもかかわらず「10万ドル賞金マッチ」を要求する度胸も持っていた(結局は実現せず)。
初上陸の日もショッキングだった。1月30日神戸大会。ビガロはトニー・セントクレアー、キューバン・アサシンと組んで猪木、越中詩郎、武藤敬司組と激突。試合は猪木が一度もリングに出られない異常かつ一方的な内容となった。
武藤らに制されてコーナーから動けない。イラつくビガロは何と越中をリング内から場外に放り投げて3人の若手にぶつけると、4人まとめてフェンス外に吹き飛ぶ。フェンスアウトでビガロの反則負けとなるも、収まらない入れ墨獣は試合後に猪木をボディースラムで放り投げると、コーナー最上段から160キロのフライングソーセージ。猪木はリング上で大の字となった。
試合後は「スピード十分でバネもある。すごいとしか言いようがない。(2・5両国は)来てから対策を立てようと思ったが、どうすればいいのか…」と猪木は珍しくうなだれた。
そして決戦当日。「ゴング前にビガロが場外へ4メートルスローの殺人技。猪木は肩とヒジを痛めて一度は控え室へ戻った。しかしその後は卍固めやスリーパーも有効打とならない。ここで猪木の魔性が爆発。何と右手の指2本でビガロの両目をアッという間に突いた。何をするか分からない男、猪木は見栄も外聞もかなぐり捨てたのだ。ビガロが処刑劇に逢うと、その後にマネジャーのラリー・シャープが乱入して反則負けとなった」(抜粋)
反則負けとなった後にビガロは人間空爆を見舞って猪木をダウンさせてシャープが3カウントを入れたが、すでに試合は決していた。猪木が魔性のケンカ裏技を出さねばならないほど、ビガロの勢いは止められなかったのだ。
あまりの衝撃と人気に4月シリーズは「ブレイジング・チェリーブロッサム・ビガロ87」と銘打たれ、4月6日後楽園の開幕戦では2度目のシングルマッチを行い、猪木が反則勝ち。ようやく勝負が決したのは、猪木が初代IWGPヘビー級王者となった後の8月2日両国国技館の初防衛戦。最上段からのニードロップがフィニッシュだった。
ビガロはその後も独特の機敏さと圧巻のパワーとセンスを武器に新日のトップ外国人となり、87年5月からはWWF(現WWE)にも参戦。90年2月10日東京ドームでは元横綱北尾光司のデビュー戦の相手を務めた。敗れはしたが、こればかりは誰もができることではなく、ビガロの卓越したプロレス技術が認められていた証拠だった。
92年3月にはビッグバン・ベイダーとIWGPタッグ王座を獲得。その後は新日のみならず日本の各団体やバーリ・トゥードなどにも参戦。バイク事故により2005年に引退状態となり、07年1月に45歳の若さで急逝。活動期間は短いが記憶に残る名選手だった。まだ34歳のJONAHにはビガロを超える名レスラーになることを期待したい。(敬称略)












