【プロレス蔵出し写真館】2009年6月13日、プロレスリング・ノアの三沢光晴がリング上の不慮の事故で亡くなってからもう14年が経とうとしている。本当に時が経つのは速い。

 亡くなってから3週間後、7月4日にノアの本拠地だった東京・ディファ有明で「お別れ会」が行われたが、一般ファンの献花が始まった14時には4列縦隊の参列者の列は会場のある江東区有明から豊洲まで延びた。そして、16時前には2・4キロ離れた中央区晴海まで達していた。

 前日の16時半から並んだというファンがいたのには驚かされたし、27度を超える蒸し暑い中、最期の別れをするために2万5000人ものファンが駆け付けたのは、三沢がいかにファンに愛されたかがわかる出来事だった。ディファから延々と続く列は、ものすごい光景だった。そして、献花台となったリングはトップロープまで花に埋め尽くされた(写真)。

 15年6月13日には、最期を遂げた広島の地で「三沢光晴メモリアルナイト」が行われたが、終了後、リーガロイヤルホテル広島で「三沢光晴さんを偲ぶ会」が開催された。三沢とともに〝四天王〟として激闘を繰り広げた川田利明、小橋建太、田上明、特別ゲストに天龍源一郎が出席して興味深い話が語られたのだが、そこで川田が酒の席で三沢と殴り合ったエピソードを披露した。

 三沢とケンカになって殴られ、酔っていたせいもあり反撃したという。小橋と菊地毅が割って入ったが、菊地を振り払って三沢に向かって行った。小橋はケンカを止めるため三沢を羽交い締めにしていたため、三沢は川田のパンチをモロに食らったという。

 この話を聞いて「あの時の?」と気づいたファンもいただろう。

無残に塞がった三沢の右目(91年11月、香川・高松)
無残に塞がった三沢の右目(91年11月、香川・高松)

 今から31年前の1991年(平成3年)11月22日、香川・高松市市民文化センターで全日本プロレスの「世界最強タッグ決定リーグ戦」が行われた日のこと。会場入りが遅かった三沢を入口で待ち構えていたのだが、到着した三沢の顔を見て「うわっ!」。心の中で声が出た。

 右目が無残に塞がっていた。そして、顔の右半分はどす黒く変色している。これは大ごとだ。そう思ったものの控室に入れる状況ではなかった。

 団体の発表によると、前日(21日)大阪で行われた超世代軍対決、小橋&菊地組との公式戦でのヒジ打ち合戦の代償というもの。ヒジ打ちを食らった右まぶたの古傷が化膿して、大阪市内の病院で緊急手術したという。この日、川田の姿は確認できなかったが、右ヒザ負傷と発表され2人揃って欠場となり、ラッシャー木村&マイティ井上組との公式戦は延期となった。

 このケガに関して、発表された内容に矛盾があることは明白だったが、この当時、それに触れるのはタブーだった。ずいぶん経ってから、三沢と川田が飲み屋でケンカしたらしいと噂になった程度だった。

 超世代軍の試合を裁いていた和田京平レフェリーは、「オレも控室で三沢の顔を見て知ったんですよ。川田が生意気だったから、殴り合いになったって。ケンカの発端? 川田のジェラシーですよ。昔は三沢を呼び捨てだった年上の(リング)スタッフも三沢が上(メイン)で試合するようになると『三沢さん、三沢さん』と持ち上げるようになって。それに川田が嫉妬したんですよ。『何が三沢さんだよ!』って。しゃくに障ったんだよね」と明かす。

 そして、「(ジャイアント)馬場さんが言ってましたよ。『川田は例え三冠王者になっても三沢は抜けない。一年後輩の川田だけど、最終的には三沢を追い越せないのが川田なんだ。一生、弟は兄貴を抜けないってことだな』って」。それが馬場の見解だったという。

「馬場さんから、おとがめはなかったですよ。単なる〝兄弟げんか〟と思っているから。だから2人にもわだかまりは、なかったよね」(和田レフェリー)

復帰戦に臨む三沢(91年11月、大分)
復帰戦に臨む三沢(91年11月、大分)


 
 さて、この〝兄弟げんか〟によって三沢は2試合を欠場し、25日に復帰を果たした。三沢は前シリーズの10月14日には大阪でジャンボ鶴田とエルボーの相打ちで鼻骨を骨折、このシリーズの開幕戦(11月16日)では右足を負傷していた。

「技から逃げない」がポリシーだった三沢はケガに泣かされ、常に満身創痍で戦っていた(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る