「そうじゃない。こうだろ!」

 阿修羅原(右)は両足を押さえ、「どうしてできない!?」とばかりプリンス・トンガ(右奥=後のキング・ハク)は木の棒で頭をポカリ! 

 この若手は、デビューから半年を迎えようとしていた三沢光晴。今から39年前の昭和57年(1982年)の1月31日、広島・尾道市公会堂での試合前の出来事だ。

 先日、全日本空手道連盟の竹刀を巡るパワハラ騒動があったが、昔、竹刀といえば新日本プロレスの〝鬼軍曹〟山本小鉄コーチの代名詞だったし、アントニオ猪木も選手を指導する時によく手にしていた。叩くことも(強弱の差こそあれ)普通だった。

 全日本では竹刀は使ってはいなかったが、この写真のシチュエーションは…というふうに見えるかもしれないが、木の棒はあくまで手に持っていただけで、たまたま殴るかのように見えるだけ。よーく写真を見ると笑顔で棒を持っているし、なによりトンガは優しい男なのだ。

 どうしてだか理由はわからないが、この日、三沢は集中的に先輩レスラーから腹筋運動の指導を受けていた。左手前(背中)はマイティ井上、左奥は百田光雄。阿修羅は足の位置を調整し、トンガは時に、棒で三沢の腹筋を上から押したりしていたのだ。

 この日の三沢は、第1試合でターザン後藤と対戦し敗戦。前日30日の広島・府中大会ではやはり第1試合で同カードが行われ、首固めで勝利していた。

 ところで、三沢は前年の81年3月に入門し、6月4日の北海道・天塩町ファミリー・スポーツセンターで行われたバトルロイヤルでプレデビュー。同年8月21日、埼玉・浦和競馬場正門前駐車場で越中詩郎を相手に、異例の速さでデビューを果たした若手の有望株だった。

 そんななか、“ある事件”が起きた――。

 巡業先の秋田・大館(82年4月2日と思われる)での試合が終わり、宿舎の旅館でちゃんこを囲んでいた時のこと。いきなりグレート小鹿から鍋のふたで頭を殴られた。どうも、段取りが悪いということらしい。同じ卓にいた佐藤昭雄が「そんなことしちゃ駄目だよ、小鹿さん。いずれ三沢たち(がエースになり)に食わせてもらうようになるんだから」といさめた。三沢がトップレスラーになっても、若手に理不尽なことをしなかったのは、この一件があったからとも言われている。

 さて、三沢がその後2代目タイガーマスクとなり、婚約発表会見を行った時(88年4月26日)のこと。

 三沢タイガーはジャイアント馬場と会見に臨み、マスコミからの質疑応答に答えた。東スポはこのニュースをスクープし、この日発売された本紙の1面で掲載していて、本紙カメラマンは三沢に、その新聞を持って1面を指さす写真をリクエストした。すると馬場からNGが…。いっときたって、再度それを要求すると馬場から怒声が「だから駄目だって言ってんだろ!」。

 馬場は会見が終わってカメラマンに理由を説明してくれた。要約すると…。マスコミは確かに抜いた抜かれたの競争をしている。しかし、抜いた社が、さらに新聞をこれ見よがしに見せつけて勝ち誇らなくてもいいだろう? 抜かれた社の気持ちも考えろということだった。勝っておごらずということを言いたかったのだろう。
 
 三沢がなぜ全日本プロレスに入門、ジャイアント馬場に師事したのかがわかった気がした(と言っても、血気盛んでペーペーだったカメラマンがそれを理解したのはずいぶんたってからだった)=敬称略。