【プロレス蔵出し写真館】5月31日、後楽園ホールで「ジャンボ鶴田23回忌追善興行」が開催される。

 鶴田は、引退表明後の1999年暮れに再び、肝臓を悪化させ岐阜県の病院で闘病を続け、その後は豪州へ渡りブリスベーン市内の病院に転院。ドナーの関係でフィリピン・マニラの病院に移り、必死に病魔と闘い続けた。

 ドナーが現れ、00年5月13日、肝臓移植の手術に踏み切ったが、術中に大量出血。通常量の倍もの輸血を受けたが容体の回復には至らず、異国の地で帰らぬ人になった。享年49。

 さて、全日本プロレスから内臓疾患と発表され、長期欠場していた鶴田が367日ぶりに〝奇跡〟の復活を果たしたのは、今から28年前の93年(平成5年)10月23日の日本武道館大会だった。

 鶴田は、前年92年暮れの「世界最強タッグ決定リーグ戦」開幕を前に急きょ全休が発表され、それ以後欠場を続け、昭和大学病院に長期入院していた。

 復帰戦ではジャイアント馬場、ラッシャー木村と組み渕正信、永源遙、泉田竜角(後に純至)組と6人タッグで対戦。鶴田は先発を買って出て、渕とがっちり組み合った。キチンシンクを決め、さらに得意のジャンピングニーパットがさく裂(写真)。そして、右手を突き上げ「オー!」。復活の雄叫びだ。

 その後、馬場と肩を組んで渕にツープラトンのキック。永源にはコブラツイスト、泉田にはラリアートを見舞った。長期ブランクをそれほど感じさせないファイトだった(ように見えた)。

 しかし、試合後、控室前で笑顔で囲み取材を受ける鶴田を撮影していて愕然とした。

 試合開始直後、渕から3、4発受けたチョップのせいだろうか、首から胸にかけてミミズ腫れで赤くなり、声はしわがれていた。試合をしていない影響は確実にあったのだ。あの〝怪物〟と言われた鶴田の面影はなかった。

 翌日、鶴田は肝炎の数値も安定している状態と語り「検査が楽しみなんです。回復力がどの程度なのかね。これで良ければ、6人タッグからタッグへ、そしてシングル戦へとステップアップしたい」と前向きに話してくれた。その後スポット参戦は果たすものの6人タッグが多かった。

 復帰以前、一部で「引退決定的」と報道され、内臓疾患が実はB型肝炎というのはマスコミは理解していた。

 元ゴング編集長で、天龍番だった小佐野景浩君がMCを務めたユーチューブで、天龍源一郎も〝鶴龍対決〟を振り返り、最後の対戦となった90年4月19日の横浜大会のエピソードを明かしていた。

 試合前、天龍が和田京平レフェリーに「今日もガンガン行くぜ」と言うと、和田は鶴田の言葉として、「調子が悪いからイス使ったり、はちゃめちゃな試合はやらないでくれと言ってました」と伝えた。その言葉に天龍は気勢をそがれ、鶴田との戦いはもういいかなと思ったという。

 これはその時、鶴田がB型肝炎にかかっているのを知らなかったためで、流血戦になって返り血を浴びせ、天龍に感染させたら悪いという鶴田の気遣いだったというのを、あとから理解したという。和田も(鶴田の病名を)我々は全然知らなかったと東スポのインタビューで答えていた。

 鶴田は、天龍がSWSに移籍し全日本を去った後、三沢光晴ら超世代軍の壁として立ちはだかった。

 病魔に侵されずにいたら、鶴田が希望していた前田日明、藤波辰爾との対決が実現し、いまだに根強い「鶴田最強説」を証明していただろうか(敬称略)。