【プロレス蔵出し写真館】〝小さな巨人〟グラン浜田が2月16日に死去した(享年74)。
昨年の11月29日、娘で女子プロレスラーの浜田文子が「11月16日に喉と、お腹にメスを入れて、酸素と栄養材を入れています。何度も何度も危険とお医者さんからは言われていますが、こうしてグラン浜田は頑張っています。昭和のレスラーグラン浜田は本当に強いです!(抜粋)」とXでツイートしてから状態が心配されていた。
浜田は1975年(昭和50年)にメキシコに渡り、UWAで活躍した。79年2月に新日本プロレスに凱旋すると、スピーディーで華麗なルチャの動きがファンにウケて〝マリポーサ殺法〟と称され人気を呼んだ。その後、日本とメキシコを往来して活躍した。
今から40年前の84年(昭和59年)4月11日、埼玉・大宮スケートセンターでユニバーサル・プロレス(旧UWF)の旗揚げ戦が行われ、試合前のリング上にエースの前田日明を中心に6人の選手が勢ぞろいした。ラッシャー木村、剛竜馬、マッハ隼人、新日プロから特別参加の高田伸彦(後の延彦)、そして浜田だ(写真)。
浜田は〝過激な仕掛け人〟と言われた新間寿氏を慕っていた。新間氏が内部クーデターにより新日プロを追われ、UWFを起こすと所属選手第1号となったのだ。
前月、3月21日に東スポがメキシコシティーの浜田に国際電話で直撃すると「(UWFに)行きますよ」。強い口調で答えるとその理由を語った。
「誰に勧められたものではなく、自分の意思で決めた。オレは新日プロをクビになりかけたことがある。それを助けてくれたのが新間さんだ。それだけに恩義があるし、新間さんが男の勝負をかけた組織に協力させてもらうのは当然だよ」と断言した。
クビになりかけたとは、いったい何があったのだろうか?
〝ドクトル・ルチャ〟ことプロレスライターの清水勉さんは「合宿所で浜田が山本小鉄さんとケンカ騒ぎを起こしたからです」と教えてくれた。
「以前、インタビューしたとき浜田は『山本さんが〝寮が汚れている〟と新弟子の誰かをぶん殴った。あまりにひどいのでオレが〝なんでそんなに人を殴るんですか〟と言ったらつかみ合いになった。みんなは止めたけど、若いオレは血の気が多かったから〝プロレスならあんたが強いかもしれないけど、喧嘩なら負けないぞ!〟って叫んだ』と言ってた。怒った小鉄さんが『あいつをクビにしろ!』と言って2人に確執ができた。浜田は『新間さんが助けてくれてメキシコに行くことになった。それでメキシコに骨を埋める覚悟を決めた』と新間さんへの感謝を口にしていた」(清水さん)
さて、UWFの最初のシリーズが終わると、新間氏はアントニオ猪木に渡したUWFへの移籍金の未回収を理由に最高顧問からの辞任を発表。浜田もUWFを離れた。その後は全日本プロレスに活躍の場を移し、長女・ソチ浜田のジャパン女子プロレス入団に伴い同団体の臨時コーチに就任した。
90年(平成2年)1月、新間氏がユニバーサル・プロレス連盟を発足させると力を貸し、同団体が活動を停止して93年12月にFULL(フェデレーション・オブ・ルチャリブレ)に形を変えると、代表の新間氏の息子・寿恒にも協力した。常に新間氏に義理立てし、馳せ参じた。
訃報を受けて新間氏は「猪木さんの許可も取らずに私が新日プロへ入れた」と明かす。
浜田の入門エピソードで通説となっているのは、プロレスラーになるつもりはなかったが関川哲夫(後のミスター・ポーゴ)の入門テストに付き添ったところ、無理やり入門させられてしまったというものだが…。
新間氏は「浜田は柔道軽量級の(ミュンヘン)オリンピック候補だった。新日プロに入りたいってことで、私のところへ来たから『じゃあ入れ』って。おたく(東スポ)の桜井(康雄編集局長)さんに相談したら『オリンピックの候補になったんなら、軽量級でもいいんじゃないか。プロレスは大きくないとダメだっていうけれども、小さい選手も逆に売り出してみるのも面白い』ってノッてくれてね。東スポと新日プロがつくりあげた選手が浜田だった」と語る。
「浜田のおかげで(他の選手も)メキシコへ行くことができたし、テレビ朝日がテレビ録りもできた。それは浜田が道をつけてくれた。僕も柔道をやっていたから(※三段)、そういう点で彼をかわいがった。(亡くなったのは)残念だね」(新間氏)
清水さんは「UWA世界王座の3階級制覇(ミドル、ジュニアライトヘビー、ライトヘビー)もすごいけど、浜田は最初からベビーフェース(リンピオ)で完璧に半分メキシコ人だった。プロモーターの信頼も含めて、ファンもメキシコ人になり切ってる浜田に驚かされたし、だからメキシコでは英雄扱いだった。それが浜田がすごかったところ」。そう亡き浜田を振り返った(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













