【中島輝士 怪物テルシー物語(50)】プロ1年目の1989年4月8日の開幕戦、ダイエーの山内孝徳さんからプロ初本塁打となるサヨナラ本塁打を打つことができました。ただ、あれはたまたまであって、自分の将来の活躍を確信できるものではありませんでした。

 私としては4月11日の西武戦(西武球場)でのプロ第2号本塁打の方が強く印象に残っています。この試合の西武先発は渡辺久信でした。当時はリーグを代表する直球の速さを誇る右腕でした。私はその久信から7回、バックスクリーンにホームランを打つことができました。この1本で私は、プロでも速い球に負けずに打っていけるんじゃないかという手応えのようなものをつかんだ気持ちになりました。

 自分の中ではそれなりの手応えを感じながら日々、目の前の試合を必死でこなす毎日でした。しかし、プロになって3か月が経過した頃、7月2日の西武戦で死球を受け、左手甲を骨折してしまうんです。プロとしてこれからというタイミング、夏場で体のキレが出てくる時期のケガは本当に痛かったです。そして、何の皮肉なのでしょうか、死球を受けた西武の相手投手はプリンスホテルとソウル五輪日本代表でチームメートだった石井丈裕だったんですよ。その日の夜中に電話がかかってきて「中島さん、すいません」と申し訳なさそうに謝ってくれました。でも、真剣勝負の中での事故ですから丈裕に落ち度があるわけではありません。こういうことは起こり得ることだから、気にしないでくれよと伝えました。

 このケガの影響もありジュニアオールスター(現在のフレッシュオールスター)への出場は辞退させてもらいました。そこからゲームへ復帰できたのは8月終盤でした。復帰してからは近鉄戦で野茂英雄から左ひじに死球を受けてしまいます。こちらもソウル五輪を一緒に戦ったチームメートです。もう、これ以降は左ひじが伸びない状態のままでプレーを続けました。

 当然、故意ではないのですが、ことごとくかつてのチームメートから死球を受けるという…。もしかしたら、私は嫌われていたのか? 恨みを買っていたのか? ということはないでしょうけど、死球禍で納得のいくプレーができなかったというのは事実でした。今みたいに手首やひじ、腕にプロテクターを着けて打席に入る時代ではなかったですからね。まあ、故障は自分で防ぐしかなかったです。

 たらればはないですが、あの離脱がなければ、20本塁打くらい打ててれば新人王も取れていたかもしれません。実際はオリックス・ドラ1の酒井勉(9勝7敗9セーブ)が新人王になりました。ケガや事故は自己責任なのですが悔やまれる1年目でした。

 1年目の成績は打率2割3分3厘、9本塁打、24打点。オリンピックの4番打者で即戦力ルーキーの成績と思えば、物足りなく感じたことでしょう。私自身も、もっとできたんじゃないかという気持ちを持ったままルーキーシーズンを終えることになりました。