【中島輝士 怪物テルシー物語(51)】私にとってプロ1年目となった1989年には、アマ時代からつながるご縁も感じることができました。5月13日のロッテ戦(山形)での出来事です。この試合でプロ野球界のレジェンド・マサカリ投法で名をはせた村田兆治さんがプロ通算200勝を達成されています。私はこの試合に7番・右翼でスタメン出場し村田さんから安打を記録しています。
村田さんは勝利の瞬間、右腕を天に突き上げました。プロ22年、右肘の手術を乗り越えてつかんだ偉業。若林忠志さん(毎日)の39歳8か月に次ぐ、39歳5か月での達成は当時、史上2番目の高年齢での200勝達成でした。
村田さんは68年に初登板を経験してから82年5月7日までに156勝。ところが、この時点で右肘を痛めて、トミー・ジョン手術を受けられました。当時は右肘にメスを入れるという行為には球界全体に抵抗がありました。今みたいに頻繁に行われる手術ではありませんでした。今現在、メジャー経験者を含む多くの投手がトミー・ジョン手術を受けてマウンドに戻ってこられているのは、村田さんの症例がきっかけとなったと言っても過言ではないでしょう。
156勝目から157勝目までは約3年の月日を費やしています。85年の4月14日に術後初勝利を挙げ、そこから白星を積み重ねて89年にようやく200勝です。約3年のブランクの間には83年、長野県の病院でリハビリを受けていた期間も含まれています。
実は私が社会人時代に右肩を故障してリハビリを受けている頃と時間が重なります。私は実は村田さんと同じ病院に入院していた時期があったんです。当時は私も投手です。村田さんはすでにプロで150勝以上を挙げている名投手でしたが、非常に気さくに接していただきました。キャッチボールもさせてもらいました。その後、私は紆余曲折あって野手としてプロ入りしています。
まさか、あの村田さんと投手と打者としてプロのグラウンドで対戦することになるなんて、故障していた当時は夢にも思いませんでした。対戦する前には村田さんとも会話をさせていただきました。あの時の中島ですとあいさつすると「覚えてるよ! お前、バッターになったんか。頑張れよ」と激励していただきました。その村田さんから安打を記録できたことは、いい思い出です。
村田さんは引退後、「離島甲子園」といって全国の離島の中学生の交流大会を通じ球児をサポートするプログラムを熱心に行われていました。引退後も140キロを超える直球を投げていた村田さん。少年たちの前でもその剛球を披露して夢を与えられていました。
広い人脈を駆使し国交省や農水省、ロッテを含む大企業のサポートを得て「離島甲子園」をライフワークとされていました。村田さんの指導を受けた子供たちの中からプロ野球選手も誕生しています。
その村田さんは2022年11月に72歳で他界されました。まだまだ、これからも野球界に影響を与え続けると思われていたレジェンドの訃報は残念でなりません。












