【中島輝士 怪物テルシー物語(52)】1988年のソウル五輪日本代表の4番打者、即戦力ルーキーと目されてプロ入りした89年シーズン。私の成績は打率2割3分3厘、9本塁打、24打点というものでした。夏場に左手首を死球禍で骨折したという事実はありましたが、周囲の期待に応えることができたという数字ではありませんでした。
でもね、「ケガしたから仕方がないよね」なんて言ってくれるのは身内くらいのもので、見ているファンの方々からすれば、その数字が私の成績なんですよ。言い訳です。それなら、ケガする前にもっと打っておけよという話です。
例えばですが、7月の時点でドジャースの大谷翔平が離脱したとしても、その時点の成績ですらすごいじゃないですか。残った数字というのは後の時代になれば、それがそのまま成績なんです。誰も故障してたから仕方がなかったよね、なんて評価はしてくれません。
私の1年目は、近藤貞雄監督にとっても日本ハムの指揮官就任1年目のシーズンでした。近藤さんはルーキーの私を大人扱いしてくれました。何においても「好きにやれ」と。盗塁でもなんでも、アウトになっても「思い切っていけ」と。思い切ったプレーを、チャレンジする姿勢を見せていれば、とがめられることはありませんでした。
近藤さんはアイデアマンでもありましたね。2年目には私を三塁手として起用するプランを押し出して、積極的に使ってくれました。「大型三塁手」というふうにマスコミにもアピールしてくれてね。ただ、このコンバートが私にとっては野球選手としての岐路にもなるんですね。
私は子供の時からほとんど投手として野球に関わってきています。社会人になって野手に転向した後も右翼手、一塁手というようにフィールドの右サイドしか守ったことがありませんでした。少年時代や高校時代のコンバートなら慣れていけばいいんですが、プロとなると話が違います。
いわゆる、サード、ショートというフィールドの左サイドを高いレベルで経験したことがない私にとっては、どうしても違和感がつきまといました。プロの速い打球に対応できないとかではないんです。ある程度のレベルでの野球を経験された方々は分かると思うんですが、ライン際のボールの切れ方、ファウルフライの軌道、ライナーの軌道も当然ながら違います。
普通に練習では、ゴロでもフライでも処理できるんですよ。でも、いざゲームスピードとなったときに三塁手として、全てにおいての対応に準備が追いついていなかったんでしょうね。オープン戦では前年までレギュラーだった古屋英夫さんに代わるような形で三塁に起用され、打率3割4分1厘と結果を残すことができました。
開幕戦も三塁手としてスタメンで出場しています。ですが、シーズン後半は右翼手としての起用が増えていくことになります。その原因は7月1日のオリックス戦で中島聡選手の三塁ライナーが顔面に直撃したからです。左眉を10針縫うケガをしてしまいました。この恐怖感というのか、違和感というのは、言い訳になりますが打席にも影響を与えたのは事実です。












