【中島輝士 怪物テルシー物語(53)】私のNPBデビューは周りの皆さんが期待するようなものではありませんでした。自分でも、もっとやれるという気持ちを持っていました。そんな中で首脳陣も私にチャンスを与えようと思ってくれていたのでしょう。2年目の1990年はそれまでの右翼手、一塁手ではなく三塁手として起用する方針で育てていただきました。
ただ、シーズン中、7月の実戦の中で三塁ライナーが左眉の下に直撃し、10針縫うケガをしてしまったんですね。これがそのあと尾を引いてしまって、守備にもバッティングにも影響が残ってしまった。
それから本職であったはずのファーストに戻ってきても、速い打球なんて怖くはないんだけど、ライナーが飛んでくると体が固まってしまったり、フライを落としてしまったりね。メンタルの部分もあったんですかね。それが実力なんですけどね、しんどかったですね。
しかし、アマ時代には国際試合となると金属バットを持ったキューバ代表と試合をしているわけですよ。打球の速さなんてハンパないんですよ。だから、本当にプロで木のバットでの守備というのは苦労した覚えはありません。
ただ、アマ時代に投手と右翼、一塁くらいしか守ったことがなかったというのは体に染みついているんでしょう。プロ入りが遅かったのもありますね。28歳とかで守ったことのないサードを経験した。左翼に関してはアマ時代にも数は多くないけど守ったことはありましたが、プロに入ってから藤井寺球場での近鉄戦での左翼守備で落球したこともありましたね。
そうなるとフィールドの左サイドへの苦手意識がついてしまうというかね、練習ではできるのに試合では克服できなかったですね。変に意識してしまうし。特に三塁守備では捕球からの送球という部分でワンアクション増えることにも違和感を覚えていました。当たり前のことなんですけどね、それまでにアマチュア時代に繰り返し、繰り返し、練習を重ねていないと、感覚は体に染みついてないんですよ。
ちなみに左眉の下を切って病院に運ばれたのは都内の警察病院でした。私自身の子供が生まれたのも警察病院。病院にお世話になるときは必ず警察病院でした。それはなぜなら私の妻のお父さんが、都内の警察署長だったからです。
まあ、それは余談としまして、私のプロデビューは華々しいものではなかったんです。いろんな葛藤がある中でプレーしていました。ポジションがかぶる超ベテランの大島康徳さんを追い越すことが使命でした。三塁レギュラーだった古屋英夫さんがありながら、近藤監督が世代交代を促す三塁コンバートを試みても私が三塁になじめない…。
それにしても、顔面に打球を受けた、オリックス・中嶋聡のライナーを捕球できなかったのはショックでした。オフには一緒に自主トレを行った仲間なんですけどね。1年目の89年はプリンスホテルの後輩だった西武・石井丈裕から死球を受け骨折でしょ。今度は自主トレ仲間の打球で裂傷。身内からの攻撃が…なんて冗談ですが、ケガしないのも実力のうちと言いますからね。













