【達川光男 人生珍プレー好プレー(11)】1972年夏、県大会の2回戦で広陵に敗れた広島県立広島商高、通称「広商」は3年生が引退し、新チームとなりました。捕手をクビになった私に与えられた背番号は「7」。かといって打撃で貢献できたわけではないのですが、チームは広島県の秋季大会を制し、翌春の選抜大会につながる中国大会に駒を進めました。
その中国大会では山口水産に5―2、鳥取の境にも6―1で勝って選抜に当確。島根の松江商との決勝は2―3の8回無死二、三塁から4番・大城登のスクイズで追いつき、続く私が相手エースの中林千年から中前に決勝打を放って4―3の逆転勝ちで優勝しました。なんとこの殊勲打は、秋季大会の広島工との決勝で二塁打を打って以来、通算16打席で2本目のヒットでした。
その翌日だったでしょうか。迫田穆成(よしあき)監督から予想外のことを聞かれたのは。「おまえ、数学は何点じゃった?」。知りたかったのは2学期の中間テストの点数で、私は「85点でした」と答えました。小学3年生ぐらいからソロバンを習っていたことは以前にも書きましたが、そのおかげで数学は得意科目の一つだったんです。
その数日後、迫田監督から「キャッチやれ」と捕手復帰を命じられました。何かと頭を使うポジションだけに、数学的な頭脳が必要と考えておられたようです。ただし、翌春の選抜大会にレギュラーとして出場できるかどうかは「1年生との競争に勝ったら」という条件付き。「サインはワシが全部出したるけ」とも言われました。先に言ってしまうと、甲子園でも全球、ベンチの指示通りにサインを出していたのです。
そこからは捕手の練習にも熱が入りました。苦手だったフライの捕球をどうにか克服しようと、月や星を見ながらフラつかずに走る訓練をしたりね。三塁や一塁を守っていた後輩には「真後ろの打球以外は、おまえらが捕りに来い」と頼んだりもしましたよ。捕る自信がないから。
ちなみにプロに入ってからもフライの捕球は苦手で、三塁の衣笠祥雄さんと一塁の水谷実雄さんにも同じようなお願いをしたことがありました。キヌさんは快く「OK」と言ってくれましたが、水谷さんには「おまえのほうがうまい。全部捕りに来い」と逆に叱られてしまいました。
ついでに言うと、プロで捕球ミスが多かったのは三塁側の打球でした。一塁側の打球は自分の責任だと必死に追うのに対して、三塁側に飛ぶとキヌさんが捕ってくれると思って動きを見てしまうから反応が遅れてしまうんです。
一方で、我が広商では迫田監督が選手として出場した57年夏以来となる甲子園Vに向け、あるプロジェクトが進行していました。それは「怪物」と称された江川卓を擁する栃木・作新学院に勝つための秘策です。












