【達川光男 人生珍プレー好プレー(6)】9つある野球のポジションの中で、少年時代の私がもっとも嫌っていたのは捕手でした。理由は地味でつまらないからです。小学校のころにあこがれていたのは華麗な三塁守備に勝負強い打撃で国民的スターだった巨人の長嶋茂雄さん。グラウンドを駆け回り“魅せるプレー”をしたいのに、捕手はしゃがんで投手の球を受けるだけですからね。
広島市立牛田小学校の5年生のときに出場した町内対抗ソフトボール大会で初めて捕手をさせられ「キャッチャーなんか二度とするもんか」と思いましたよ。6年生では投手をさせてもらったからいいようなものの、あのまま「今年もキャッチャーで」と言われていたら野球が嫌いになっていたかもしれません。
どうにか野球を嫌いになることもなく、卒業文集に「将来の夢はプロ野球選手になること」と書いて牛田小を卒業した私は、牛田中で迷わず野球部に入部しました。最初はピッチャーをさせてもらい、ほどなく三塁のレギュラーに。県大会の1回戦に勝っただけでお祭り騒ぎになるようなチームだったので、家に帰ってからも自主練習をしていました。「甲子園」へのあこがれも少なからずありましたからね。
中学1年生だった1968年夏から3季連続で聖地を沸かせた青森・三沢高の太田幸司さん、70年春のセンバツを制した和歌山・箕島高の島本講平さん、69年夏と70年春に地元広島を代表して甲子園で戦った広陵高の佐伯和司さんといった少し年上のスター選手たちが活躍する姿をテレビで拝見して「ワシも出たいなあ」と思ったもんです。
3年生になって進路を真剣に考えるときも、まずは「強い硬式野球部」があることを最優先事項にしました。候補は県立広島商に広陵、崇徳、山陽の4校。なかでも試験が早かった崇徳の商業科は受験の2日後に合格通知をいただきました。
同校は自宅から10分という好立地。野球をするには申し分ありませんでしたが、家計のことを考えたときに「私立」という点が引っかかっていました。それに広島商に進学した先輩から「野球をするなら広商がええぞ」と誘われて悩みました。
崇徳の商業科に合格した時点で担任の末井俊成先生から「あとの二つはええじゃろ」と言われて広陵と山陽は受験することもなかったのですが、なるべくなら公立校…という思いはありました。しかし広島商を受験したいと告げると、末井先生から「今の成績じゃ…。広商は9科目の平均が55点以上ないと通らん。おまえは45点じゃ。公立なら家からも近い市商に行きんさい」と現実を突きつけられました。
ちなみに「広島商」という名の高校は二つあって、地元では野球強豪校として知られる県立広島商を「広商」、市立広島商は「市商」と呼んで区別しています。もちろん市商も立派な学校なのですが、ネックだったのは軟式野球部しかなかったこと。私は先生の反対を押し切って広商を受験することにしました。












