【達川光男 人生珍プレー好プレー(5)】小学5年生から始まるクラブ活動で私が選んだのはサッカーでした。通っていた広島市立牛田小学校には野球部がなく、体育の授業でサッカーをしたときに先生から「達川は一歩目が速い」と褒められたことも動機の一つです。MFを任されて張り切っていたもんですよ。もし、あのころにサンフレッチェ広島があって、Jリーグで毎年のように優勝争いでもしていたら、そのままサッカーを続けていたかもしれません。
でも、そうはならなかった。私は物心がついたころから広島カープが大好きで、野球が大好きでしたから。やるのはもちろん見るのも大好き。お小遣いがあると、授業終わりに友達と自転車に乗って、原爆ドームや平和記念公園の近くにあった旧広島市民球場に行ったもんですよ。
話題の中心はいつでもカープ。当時は万年Bクラスでしたが、試合の勝敗や首位とのゲーム差なんかで盛り上がっていたもんです。「首位と20ゲーム差か。だったら20連勝すればええんじゃ」とか言って。チームが弱くても、スーパースターの長嶋茂雄さんや王貞治さんと同じ土俵で戦っているカープの選手たちが誇らしくもありました。
ちょっと話は前後しますが、中学1年生だった1968年9月14日、父親と訪れた旧広島市民球場で歴史的瞬間を目撃しました。先発投手の外木場義郎さんが大洋相手に完全試合を達成したんです。その日はなぜかバックネット裏の席での観戦で、午後9時を過ぎたあたりで「もう帰ろうや」と言い出した父に「ノーヒットノーランが続いているから見ていこう」とねだったことを覚えています。
ちなみに外木場さんはこの日の完全試合を含めて生涯3度のノーヒットノーランを達成されました。日本ではほかに沢村栄治さんしか成し遂げておらず、2リーグ制以降ではただ一人の快挙。同年は外木場さんが21勝して、安仁屋宗八さんも23勝をマーク。就任1年目の根本陸夫監督のもとでカープは球団初のAクラス入りを果たしました。あのときの興奮は今でも忘れられません。
話を戻しましょう。牛田小のクラブ活動ではサッカーを選びましたが、体育の授業や町内対抗のソフトボール大会という形で“野球”は続けていました。外木場さんや安仁屋さんといった投手にあこがれ、長嶋さんの華麗な三塁守備に魅了されていた私は5年生のときに牛田新町のチームで町内対抗戦に出場した際、なぜか捕手を託されました。
守りではマスクをかぶってホームベースの後ろにしゃがみ、投手が投げるボールを受けるだけ。「なんでこんなことせにゃあ、いけんのや」。見せ場のない捕手は私にとって「つまらないポジション」だったのです。
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